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大学卒業を半年後に控えて、部屋を移ることにした。引っ越しに際して部屋を片付けながら荷造りしているのだけれど、以前は捨てられなかったものが今回は簡単に捨てられる。例えばそれは使わなくなった紙類。もう着ない服、もう覚えてしまった本。呆気なく捨ててしまうよりは必ず次の貰い手を売るなり寄付するなりして探すのだけど、服や本の役目を私で終わらせるのがなんだか気持ち悪く思うからかもしれない。特に本は、この言葉を次に求めている人がいるはずで、それは誰だろうか。困難や息苦しさに直面した誰かに寄り添ってくれるのはどの本だろうか、と思案してしまう。本を人に薦めたり、プレゼントしたりするのは、自分の一部をすこしだけあげるような心地なのかもしれない。
実家に残してきた蔵書もいつか回収したいと思いつつ、時間とスペースが取れない。
本棚を買い換えたいと思っているけど、その前に、次の家に何を持っていって何を処分し、何を買い換えるのか、ひとつひとつやればさほど苦でもないけれど、如何せん、苦手だ。物を増やすときは簡単なのに減らすときには手間がかかるのはどうしてだろう。物々交換の時代に少し還ってみたくなる。(貨幣に置き換わっただけで広い意味で現代だって物々交換なんだろうけど、それは一旦置いておく。)
他人からすれば不必要なものでこの部屋は満ちている。インスタで見る、シンプルで必要最低限の物のみが置かれた清潔な部屋。そこで穏やかに暮らせる人もいるだろうけど、私にはこの他愛ないポストカードが、本が、CDが、手紙が、どれも愛おしい。死んだら棺桶にいれてほしいものが多すぎて多分死体が入らない。いつだって「今」を少しずつ残して、遺していたい。
次の部屋、私にとって最高の住み心地にしてやる。時間をかけてつくっていこうと思う。私は私の帰る家を自分で選んで作り上げる。そうやって、「生きる」を自分に許していけたらと思う。