好意と推しについて
「好きなら、あの人に近づきたいとか友達になりたいとか、あの人に相応しい自分になろうと頑張ったりしない?」
と聞いてから考えている。好きって、なにで出来ていて、どこから来ている気持ちなんだろうか。
例えば家族への、友達への、恋人への、好き。方向性はバラバラで濃度も全然違うけれど、結局のところ好意的な気持ちに帰結していく。(私の場合家族に対しては少し違うかもしれない)人それぞれ、それぞれに合わせた「好き」。ひろく「好き」よりも高度なものとして「愛している」とか「love」が用いられていると感じるけれど、これも、なにで出来ていて判断基準はどこにあるのだろう。どうやってその判断基準が出来ていったんだろう、と答えのないことを今日も考え続けている。少なくともプラスチックほどペラペラしたイメージでない気持ちを私はそれぞれの方向にむけているけれど、それが自分の辛いと感じる出来事の所以になっている部分もあると思うから、大きな気持ちであれば善、みたいなことは全くないと思った。
敬愛、という言葉では表しきれないような、私の人生を語るなら何よりも抜いてはならない、けれど私の中に在ることが当たり前になりすぎていて言葉にすることすら忘れてしまうほどの存在で大切に思っている音楽家の活動に全力でウキウキしまくっている。マジで毎日楽しい。別に人生の全ての楽しさがここに集約されているわけではないけど、推しが息しているだけで本当に幸せで仕方がないなと思う。同じ時代に、リアルタイムで愛することができて運が良い。間接的な死に触れて、簡単に「しあわせだ」と言い切れなくなってしまった自分がいる。
同じ時代に生きていて幸せ!と言い切るには、私の近くには、誰も悪くないのに、同じ時代に生きられなくなってしまった人たちがいる。そこに向けて「運が悪かった」なんて思わないし言いたくもないけど、じゃあなんて言葉をかけたらいいのかも分からなくて口をつぐんでしまう。なんていえばいいか分からなくて口を閉じてしまう、言葉を探しているうちに会話が進んでしまうことがあまりにも多くて、現実ではずっとへらへらしているか笑って誤魔化すような人間になってしまった。そういう自己嫌悪にまたへらへらして生きているから、どうしようもなく、どこかでずっと罪悪感があるし窒息しそうになる。
話がそれてしまったけど、推しの話。確かに推しに向ける気持ちは好意に相違ないのだけど、その人と知り合いになりたいとか近づきたいとか友達になりたいとかはむしろ全く一ミリも思わない。出来る限り精神的に離れた場所で一方的に見つめているくらいがちょうどいいほどの輝きをしていると感じる。それもあるけど、推しの見せたい部分・見えている部分、表面的な部分しか知らないからこそずっと好きでいてこれた気もするし、推しに私のパーソナリティに関わることを知ってほしいとは全然思わない。私の個人的な汚さは具体的に何も知らないまま、ただその根底に通じることを言葉にしてくれて、勝手に聴いて勝手に救われているだけだな、と思う。私のことは何も知らないまま、自由に、出来れば本人にとって幸せに生きていて欲しいと思う。私の中で声や顔や言葉以外で絶対に具体的になって欲しくない。率直に言えば体温とかマジで知りたくない。(でも握手出来たらしぬと思う。)し、具体的に誰と交際しているとかも本当に知りたくない。結婚したら祝いたい。矛盾の大行進、昨日も今日も明日も推しを思っている・・・。
あなたの推しはどこから、あなたの好きはどこから、よかったら教えてください。暑いから気を付けてね。