2年後

美味しいご飯を食べる、好きな服を着る、当たり障りの無い事で簡単に幸せになれるのに、未来の幸せを掴み取るのはひどく難しいことに思える。


2年くらい前、思い出せないほど苦しい日々が続いて、今の年齢になったら その年の死んでしまおうと考えていた。別に、その時死んでしまっても良かったのかもしれないけど、そうするには惜しく思うほどやり残したことが多く感じられた。余裕をもって、やり残したと感じていることの全てを達成してから死のう。今となってはよく分からない思考回路だけど、大切に思っていたものを失って、自分の命を含めて守るものが無い人間の考えることはそういう風に突飛した。

とにかく自己肯定のハードルを下げながら、人との約束を守る事だけを大切にして息をしていた。余りにもTwitterに吐き散らかすものだから、色んな人が心配して(うるさいとも思われていたと思う)会おうとしてくれた。(自分からも会いに行った)学校や職場に行けなくても、そういう約束だけは守ろうと思っていた。

当時行った好きなアーティストのライブの時に撮った写真は、どれも驚くほど痩せていて、それでも誰かと笑っているのだから不思議だった。

やり残したことをやればやるほど、次にやりたいことが増えていってしまった。困ったなぁと思っていたら、今年になって、結局まだやり残したことだらけだ。


耳の痛く思える言葉は聞きたくないし、現実なんか見なくていいならずっと眠っていたい。誰かが用意してくれた居場所で何の心配もなく生きられたらどれだけ楽だろうと思う。けれど、悲しみや苦しみに対する痛覚が残っていて、ひしひしと生を突き付けられる。

「誰かが用意してくれた何の心配も要らない居場所」に居たら、そういう場所に自分が居ることにも気づかなくなると思った。じゃあ今の自分はどこにいるのと言われたら、それは分からないのだけど。


愚かさを教えてくれる言葉を、そういう言葉を送ってくれる人を大切にしたい。耳が痛い、なら耳が痛いのはどうして? そこに無意識でも見たくなかった自分がいると思う。 綺麗に見える人間も私に見えない部分で愚かだったり矛盾と戦ったり苦しんだりしている。救いのない共通性になんとなく救われる。


人間関係が下手なのはもうどうしようもないかもしれない、幸せになるって簡単なのに果てしなく難しい、そんな風に思いました。

なんていうか、日頃ほんと、ありがとうございます。

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