春
1年前。1年前と聞いて思い浮かべることは人それぞれだろうけど、今の私にとっては入社式の日だったな、というかんじ。入社式といっても、入社前からずっとそこで働いていたから、形式的なものですぐに終わって、ありがたみも何も感じなかった。
そんな風に過ごしていたときは、今「こうなっている」ことなんて想像もできなかったし、していなかった。当たり前のように働いて、当たり前のように苦難(笑)みたいなものを乗り越えて、それっぽく生きていくのだと思っていた。今じゃ全然そんなことはなくなっていて、所謂一般的な社会人のレールからは外れてしまったな、という気持ちがある。
病状として診断される前から、(物心ついた時からというと言いすぎだけれど、いろいろな判断を一人ですることができるようになるころにはすでに)鬱と仲良く暮らしていた気がする。そこにいると気づかなかったほうが幸せでいられたのかもしれない。そこにいる、これは違和、おかしいことなんだと思った時から苦しくなってしまった気もしている。認知の問題だろうな。
最近は薬が増えて、その薬が体に合わずに副作用(ひたすら眠い)に振り回されている。体が重くて起きられないのが眠たくて起きられないにすり替わってしまった。なんだかそうやってもがくことすら誰かに馬鹿にされている気がして、生きていくのが嫌になる。
1年後のことなんて誰にも分からない。生きているか、死んでいるかも。こうやって書き残すこれが来年には遺書になっているかもしれない。それを悲しいとも思わない。擦り切れすぎて他人の苦しみにも鈍感になってしまった。それだけは悲しいかもしれない。共感も寄り添いも、自分からする場合に限っては嘘くさくてだめだ。春はだめだ。春は。春は嫌いだ。
夏だって特段好きじゃないしそのほかの季節だってそうだと思った。死にたいとは思わないけれどただそっと忘れられたい。矛盾だらけの自分を抱えて生きていくしかないのだった。
もうすぐ誕生日を迎えてまた一つ大人になる。20代なんてまだ子供、なんて言う人がいて、いずれ理解できるようになるのかもしれないけれど、20代ってもういい大人だろう、と思う。こんなにも足りないで生きていていいのだろうか。生きていくとは、自分で自分に生きていいと言ってやることだ。そこに大した理由なんていらないはずだ。明日からもじたばた生きてやるんだ