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ぐっばい

口下手でも舌足らずでも、別れはそれを感じた瞬間に何らかの形で落ち着けたり葬ったり手向けたりしないと、次の瞬間には「別れだったあの時」になっていて、もう取り返しがつかないくらい個々人にとって青春の代名詞になってしまう。それは青臭くて愚かで汚くありながら、同時に甘美な香りで半永久的に愛せそうな気がしてしまうのだ。




大学生も半ばくらいのころ、人生の節目に立て続けに足をすくわれ、もう2度と這い上がれないんじゃないかと思うくらいのくらやみに転げ落ちていたことがあった。
少しずつ少しずつ、色んな人に多大な迷惑をかけながらどうにか踠いていた頃、おそらく最も迷惑をかけただろうと思う人がいる。


その頃の(、また今でも)私は兎角人に許されたがっていた。自分で自分を許すことが出来なかった。自分で出来ないことを人に求めて、縋って寄りかかって、何の抵抗も躊躇いも無く人に依存した。毎日毎秒死にたかったし、どうせ死ねもしないベランダから落ちることばかり夢想し、そのあたりの車に突然突っ込んでもらいたかった。家にいるときはずっと泣いていた気がするけれど、いま思えば、その頃の友達の前で泣いたことが無いかもしれない。助けてほしい気持ちと察してほしい気持ちで出来た自己都合モンスターだったと思う。

そんなモンスター(私)の話を懇々と聞いてくれる少し変わったかいじゅうが居た。
ありきたりな(というと大変失礼ではあるが、)病んだ女の子とそれを支えてくれる優しい彼くん、みたいな図に押し込められてしまうのは癪でありつつも、きっとこの後に続くのは端から見ればそんな話でしかない。


かいじゅう、すなわち彼は、私から見て、驚くほど自由自適に個(孤)であるように見えた。私が私のことで必死でも彼の内側は全く揺らがないように見えたし、私が不得手とする人間関係の全般を彼はそこはかとなく泳いでいるように見えた。苦労してないという意味ではなくて、味を知りつつ、知っているからこその距離感で自他心地よく泳ぐコツを知っているように見えたのだった。
なんだこいつ、と思った。赤鬼と青鬼の話で言えば、物語の果て、もう誰もその話を知らなくなった頃に、青鬼っぽく振る舞うようになった赤鬼みたいなかんじの人だった。

面倒見が良いのか、または面倒を嫌ってか、その両方か、はたまた別の理由かで、私と彼は行動を共にすることが増えていた。

当時の弱りきった自己都合モンスターは、かいじゅうに文字通り(?)懐柔されて、最弱わがままモンスターに進化していった。

どうしようもない不安に苛まれてひとりでいられなかった時、自分が情けなくて不甲斐なくて仕方がないとき、かいじゅうの巣に逃げ込んで暮らしていた。

かいじゅうの巣は基本的にいつもきれいで、どうやら模様替えが好きなようだった。
かいじゅうが巣を空ける時も、時折私は巣に残っていて、スーパーまで散歩して天気の良い日中に夜中みたいな格好をして出歩いているのが私だけで、ぁあ生きられないやと感じて半泣きで巣に逃げ帰ったりしていた。
そんなことをかいじゅうが巣に帰ってから話したりして、ダメな自分を許されながら、少しずつ少しずつモンスターは人間らしい形に戻っていった。

(とは言っても元々人間じゃなかったようなのが顕在化して、再びそれらしく擬態するようになっただけの話。)


列挙するほどでもないようなありきたりさで彼と私は過ごしていて、でも、そのありきたりな日々に少しずつ、私は生きることそのものを許されていったんだと思う。
特別なものは、高価で無くとも唯一無二ではあって、その唯一性によって輝きを増してしまう。


出会った頃と比にならないほど自然に笑えるようになった写真を見て、ほどかれていった自分と、ほどいてくれた彼に何度も感謝してしまう。



あの巣も、その頃の私の巣さえも、もう2人の人生の折に引き払ってしまって、2度と入ることは出来ない。
例え同じ家具を買って同じように並べても、もう同じ日々は戻らない。

あの巣がもうどこにもないこと、それ以上に、あの巣でもう2度とご飯を食べることも、あの巣から出掛けることも、帰ることも無いことに今更気づいたことが、悲しくて仕方ない。



もう戻らないと気づいたとき、別れを告げたいものは、遠く遠く離れてしまっている。
自覚した瞬間に遥か先に離れて覆せないからこそ、焦げ付くほどに眩しくひかる。
思い出はいつだって美しくなっていってしまう。
だから、ちゃんと別れを告げたいものには、別れがくる前にさよならを言わないといけない。



もう美しくなるだけの思い出へ、
もう戻らないあの巣へ
あの時のふたりへ


口下手でも舌足らずでもちゃんと言うべきだ、



ぐっばい、





帰る場所が無くなっても手を繋いでいることがまだ、やっぱり、私の人生の希望だと思った。

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