ベテルギウスと常識について

ベテルギウスが消えるらしい。正確には、もう消えかかっているらしい。それが話題になるまで、僕はベテルギウスが何なのか知らなかった。

ベテルギウスとは。冬の正座で有名なオリオン座を構成する星のひとつである。それ以上のこともそれ以下のことも僕は知らない。ただ、今僕たちが見ている星の光が、遥か彼方、何百年、何千年、それ以上の時間をかけてこちらにもたらされた光だということは知っている。単純に考えれば、近いうちにベテルギウスの光が見えなくなって、欠けたオリオン座が観測されるようになってはじめて、僕たちはベテルギウスの「死」を観測することになる。計り知れない時間をかけてこちらにもたらされる「死」って一体何なんだろう。ベテルギウスは、潰える間際の光を僕たちに届けるまで、その存在が無くなったことを、他の誰にも知られないままなのだろうか。

そもそも星に対して生とか死とか、そういう生物としての概念を当てはめることそれ自体が間違いなのかもしれないけれど。例えば、7つの星を結んだ形をオリオン座と覚えている僕は、ベテルギウスの「死」を観測することが出来るけれど、欠けた状態の星を結んだかたちを「オリオン座」だと覚えることになる世代に、ベテルギウスの「死」は観測できない。伝承として、あくまで昔話になってしまう。

ベテルギウスは、宇宙の果てでひっそり居なくなろうとしている。居なくなってから、オリオン座はベテルギウスを欠いた形で教えられることになるのだろうか。鼓型になれないその星達を、僕はなんだか歪だと思うけれど、そう思わない世代がやってくるのだろうか。そう思わない世代が大衆を占めたら、僕は知らないうちに常識に締め出されて、気づいたらマイノリティになっているのだろうか。

誰も悪くないのにな。なんて思った。消える消えると地球で大騒ぎしている間に、消えちゃうのかな。

僕にとっての常識を変えるのは、星の「死」を以てしても難しい。

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