恩返しの気持ちって嘘ではないけど多分それだけで生きていたらとても傲慢な生き方になるのだと思った。需要と供給の一致しない行為はただの施しで、ありがた迷惑になってしまうこともある。優しさって何なのか本当に分からない。

仲良くなったりならなかったりの過程で、望む望まないに関わらず誰かの傷を知ることがある。それがいつか、時間や立場や関係性、心の変化のなかで結果的におなじ場所に塩を塗り込む行為になってしまう、そういうことが怖いし怯えながら人と関わるのをやめられない。別に傷つけたいなんて思ってなくてもそうなってしまう、それに気づいたときや思い至ったとき苦しくなる。
その一方で、家事をしたり仕事したり、なんやかんや自分で生活を満たす術を身につけて、しあわせに生きるための考え方、みたいなのを少しだけ探し出せた気がしている。そういう幸せに浸って、誰かの痛みや苦しみに無頓着になりたくないとき、「誰かを傷つけて生きているかも」みたいな考え方そのものを利用している気になってきて、また辟易する。

人の痛みを思える人として、自分は自分のしあわせを大切にしながら生きてゆけたらいいな。すごく崇高な目標に思える。

死にたいけど、いまこの瞬間わたしが消えたとしたら、わたしが残した文に残る生存の臭さも、家に残る食材の生々しさも、誰かに処理させるのは忍びないなぁ。常々遺書を遺すつもりで生きていこうかなぁ。わたしの部屋のノート類は中を見ずに焼いてそれらの灰なんかを骨と共に焼いてくれると嬉しいです。墓は要らないので故郷と私の大好きな土地の海にそれぞれ適当に分けて捨ててくれると良い。生命の循環を感じましょう。あとグッズとか、色々書き記すことが多くて、円満に死ぬのって一苦労やなって思ったからとりあえず後片付けはじめようかなって思うあたりまでは生きとこうかなぁ。はぁ。はやくいろんなところ出掛けたいです。あと数年は無理として、この数年のうちに失う経験機会ばかり思ってしまうね。得られなかったものばっかりじゃないことを思いながらひとまず明日を目指します。

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