0827
電車から降りると鳥が群になって飛んでいて、寂しくなった。「寂しくなった」と書く度にその白々しさに毎回あっけなく諭されるのだが、ともなくここでは水鳥が高く鳴く。そして、近くの区営公園で横たわって死んでいたりする。次の日に通るとそれはもう片付けられていて、昨夜のあの湿った羽を横たえた黒く重たい容(うつわ)はどこに行ったのだろうと思い、しばらくすると犬が行き来する遊歩道に戻っていく。
国道沿いは絶え間なく車体が暴力な音を立て走っていくけど、覚えている景色などほぼ無いだろう、記憶はおおよそそのようなものだ、淡白な、欠損な、イメージに乏しい。
文面を読むと意味が開示されるのが最近なんだか怖く感じ、思考を切り開いていく方向というのは、「わからない」から出発するので、なんかその意味の浅瀬に浸かっているような感覚がぬるく、目線だけで平たく読んでしまう。?
自分が何を見ているのか、の問いに身体を用いることは多々あると思うけど、この間読んだもので「身体から垂直に出ているそれは、実際に身体で触れたとは言えない」(意訳)、なので「身体の体験とはまさに自分自身と並行な地続きのものである」みたいなことが書いてあって、ああ、なるほど、と思った。垂直関係になるのなら他者であり、別個体? 角度を持っているのなら同化は不可能で、どんなに身近な形態であっても分離していることに変わりはない。だとしたら、本能は並行関係を保つことで自身と結ばれる?いや本能もコントロール出来ないものと見なすのなら、垂直関係、見つめるは他者なのかな、もしくは、先々で自認以前にすでに並行関係は結ばれていて、それをようやく私は本能と認識している?理性と何がどのように違うんや。
そもそも本能は自身の視界には無いのかもしれないと思い、私にはどうすることも出来ず、以前はひたすらに歩き回っていたのだった。ズレた位置を戻せずに、引きずり回されている感覚は非常に現実的で肌に近いのだが、薄ら膜の張った同化しない何かだ。野生と呼ぶにはそぐわない、この感触は。