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日本円を使うメリットとデメリット(円を否定すると起こるインフレのリスクについて)

今回は、「日本円を使うメリットとデメリット」「円を否定すると起こるインフレのリスク」について説明する。


「グローバルな信用」と「ローカルな信用」

まず、「日本円のメリットとデメリット」という話をしたいのだが、そもそも日本円についてメリット・デメリットという視点を持ったことのある人は少ないだろう。

日本円は、基本的にはあればあるだけ欲しいものだが、現役の労働者にとっては、日本円は稼がないと手に入らないものだ。

そして、その日本円の入手難易度に対する日本円のパフォーマンスがどうなのか、という話をまずしたいと思う。

日本円は、グローバルに信用されている貨幣のひとつであると言える。

日本円であれば、例えば北海道で稼いだ金を沖縄でも使うことができるし、日本以外の国に行っても基本的には悪くないレートで現地の通貨と交換できる。

このような、日本円という貨幣がグローバルに高い信用を持っている状態は、単純に望ましいこととされがちかもしれないが、「必ずしもそうではない」という話をしたい。

まず、ここでは、日本円のような法定貨幣には「グローバルな信用」があると見なす。

それに対して、「グローバルな信用」ではない信用の形を考え、それを「ローカルな信用」と呼ぶことにする。

ここで言う「ローカルな信用」としては、例えば、友情や愛情、属人的信用、互酬的関係、特定の地域における文化や常識、などといったような、「信用」ではあっても特定の人たち同士の間や特定の集団の間でしか機能しないものを、そう呼ぶことにする。

この記事においては、少数の人の間でしか通用しない「ローカルな信用」と、多くの人の間で通用する「グローバルな信用」とを、対比して考える。

ここでは、明文化・客観化されていない、人の感情や特定の文脈のようなものが「ローカル」な性質を持ち、明文化・客観化された、貨幣や法律のようなものが「グローバル」な性質を持つとする。

「ローカルな信用」と「グローバルな信用」は、はっきりと二分されるものではなく、程度問題で、グラデーションのあるものになる。

ドルや円のような貨幣も、アメリカや日本のような国家という「ローカル」が発行しているものであるように、完全に「グローバル」なものではないのだが、非常に大多数の人に信用されているので、程度としてはかなり「グローバルな信用」のほうに振れていると見なす。

一方で、法定貨幣であっても、国際的にあまり信用されていない国の貨幣は「グローバルな信用」の度合いが下がる。もっとも、国家が発行しているのならばある程度は「グローバル」であることが多い。

対して、属人的な信用は「ローカル」だが、それが知名度や影響力のある人のものになるほど、程度としては「グローバル」に寄っていく。

また、農作物などの生産物の価値に裏付けられた地域通貨が発行された場合などは、法定貨幣ほどではないにしても、属人的信用よりは「グローバルな信用」があると見なされることが多いだろう。

なお、日本円の信用を利用した取引であっても、家族間や友人間などで適当に金の受け渡しをしたときは、「グローバルな信用」の程度は少し落ちる。一方で、商業活動のルールを守り、申告や納税のような義務を厳密に行うほど「グローバル」な度合いが高くなる。

客観化・明文化などのためのルールをしっかり守るほど、「グローバルな信用」が強まると考えるのだ。


「ローカルな信用・グローバルな信用」のメリット・デメリット

先ほどまでように、「ローカルな信用」と「グローバルな信用」とを対比させた上で、日本円という「グローバルな信用」のメリット・デメリットは何か、を考えることにする。

まず、「日本円(グローバルな信用)」のメリットは、誰が使っても同じような価値を持ち、どこに行っても同じように使えること、また、貨幣価値の変動はあるにしても、それほど極端に変化する可能性は低いと見なされているので、安心して「貯金」ができることだ。

これらは、日本円を使っている我々にとっては「当たり前のこと」であり、特段メリットとして意識されることはないかもしれないが、「ローカルな信用」と比べればメリットになる。

一方でデメリットは何かというと、コストが多くかかることだ。

「グローバルな信用」である日本円は、その信用を「グローバル」なものにするためにかなりコストがかかっていて、それは日本円を使う我々も負担している。

会社から給料をもらっていると意識しにくいかもしれないが、日本円の使用に付随する法務や税務などをこなすためには多くのリソースが必要で、事業者は、法定貨幣に準拠するためのコストを多く支払っている。(もちろんそのコストは間接的に労働者全員が負担していることになる。)

また当然ながら、日本円を介すると「税金」というものが引かれる。税金も、過去よりも上がり続けていて、「日本円のデメリットが多すぎるから使うのをやめておく」という選択肢を我々が持たないゆえに、ある種日本政府に好き勝手されているのが現状であると言えるかもしれない。

日本円(グローバルな信用)のメリットは、普遍的・客観的な信用であることだが、そのためのコストがかかり、それがデメリットになる。

そして、今の社会においては、制度の複雑化や増税が進んでいて、コストがかかるというデメリットの側がどんどん大きくなっているという事情も指摘しておきた。

このような事情を説明した上で問題提起したいのは、日本円のような「グローバルな信用」をあらゆる場面に適用すること、つまり何でもかんでも貨幣を使ってやり取りをしようとするのは、メリットが薄いわりにデメリットが大きく、割が悪いのではないかということだ。

「ローカルな信用」でも事足りる場合に「グローバルな信用」である貨幣を介するのは、オーバースペックで、無駄にコストがかかってしまうのではないか、というのが、当記事における問題提起になる。

「ローカルな信用」のメリット・デメリットは、先に説明してきた「グローバルな信用」の逆で、コストがかかりにくい一方で、普遍性・客観性に欠けること、になる。

例えば、友達を作るときなどは、いちいち契約を交わして役所に報告したり、やり取りを記録して記帳や確定申告のようなことをする、みたいなコストを支払うことはなく、明文化・客観化がされない適当な感じでやるだろう。

これが「コストがかからない」というメリットになる。

一方で、たくさん友達を持っていて信頼されている人間は、ある種の資産を持っていると言えるが、何かのキッカケで友達が離れていくとその資産を失ってしまうことになる。属人的な信用のようなものは、貨幣と比べれば安定感に欠ける。

日本円のような「グローバルな信用」という形で報酬を得ていれば、場所や時間を跨いでもそれを使えるが、「ローカルな信用」の場合はそうではないということだ。

これが「客観性に欠ける」というデメリットになる。

まとめると

  • 「グローバルな信用」のメリット・デメリットは、「客観性があるがコストがかかること」

  • 「ローカルな信用」のメリット・デメリットは、「コストがかからないが客観性がないこと」

となる。


「集団」を重視する「ローカル」、「個人」を重視する「グローバル」

そして、さらにマクロで見た場合、両者には非常に重要な違いがある。

それは、「グローバルな信用」が「個人」を重視して、「ローカルな信用」が「集団」を重視する、ということだ。

「グローバル」から適用範囲が狭まって「ローカル」になることで、個人よりも集団が重視されるというのは、変な感じに思えるかもしれないが、理屈としては次のようになる。

集団の規模が大きい場合(「グローバル」な場合)、「個人のため」と「集団のため」の距離は遠くなる。

大きな集団になるほど、「集団のため」の行いが自分の利益になる度合いが小さくなるのだ。

そのため、大きな集団というのは、「集団のため」にリソースを使うインセンティブが少ない状態と言える。

一方で、集団の規模が小さい場合(「ローカル」な場合)、「個人のため」と「集団のため」の距離は近くなる。

小さな集団になるほど、「集団のため」の行いが自分の利益になる度合いが大きくなるのだ。

小さな集団は、大きな集団よりも「集団のため」にリソースを使うインセンティブがある状態と言える。

このような理屈で、「ローカル」は「集団のため」にリソースが使われやすい状態であり、「グローバル」は「個人のため」にリソースが使われやすい状態、ということになる。

「ローカルな信用」を介すると「集団」が重視されやすく、「グローバルな信用」を介すると「個人」が重視されやくなる。

「集団のため」にリソースが使われやすい「ローカル」の例は、貨幣経済が浸透する以前の伝統的な社会だ。そこにおいては、自己利益の追求が否定されて、「集団のため」の仕事に従事させられることが多かっただろう。

それに対して、例えば、「貨幣」には、「ローカル」を超える普遍性をもたらそうとする性質があり、伝統的な社会に貨幣が浸透していくほど、「ローカルな信用」よりも「グローバルな信用」が重視されるようになっていく。

また、貨幣が広く普及していくと同時に、それに付随する法律というものも、全員が納得できる客観化・明文化されたものであることが目指されるようになる。

このように、「貨幣・法律」の普及は、ローカルなルールを否定してグローバルなルールを重視する動きであると言える。

そして、貨幣・法律のような「グローバルな信用」には、個人を守ろうとする性質がある。

例えば、地域特有のローカルなルールというのは、個人に対して理不尽なものであることが多いが、「ローカル」を超える貨幣を介するからこそ、万人に納得されるような(グローバルな)ルール作りが意識され、それによって個人の権利が守られやすくなる。

また、貨幣を介することで、労働の価値が客観的に比較されやすくなるが、それによって、「この労働に対してこの報酬はおかしい」などといった形で、理不尽な搾取が抑制されたり、少なくともそれが問題であると可視化されやすくなる。

この、個人を重視する「貨幣(グローバルな信用)」の作用は、望ましい側面があると同時に、「集団のため」が重視されない社会をもたらすという問題点もある。

例えば、社会集団の存続にとって「子供を産み育てること」は必要不可欠な仕事だが、実は貨幣や法律はそれを評価できない。

そもそもルールを理解することができず、一方的に庇護を受ける必要のある「子供」は、貨幣や法律が想定する近代的個人の外部にいる存在だからだ。

これに関しては、「なぜテクノロジーが進歩したのに生活が楽になっていないのか?」や「経済成長すると少子化が進む理由と、べーシックインカムによる出生率の改善について」などの当noteの過去の記事で説明してきたことと関連するのだが、

  • 「ローカル」は個人の自由を否定する「正しくない」ものだが、社会集団の存続にとって必要な仕事を評価する

  • 「グローバル」は個人の自由を肯定する「正しい」ものだが、集団にとって必要な仕事を評価しない

といった対比によって、ここでは、「集団(社会に必要な仕事)」を重視する「ローカル」と、「個人(自由)」を重視する「グローバル」、という概念を扱うことにする。


「ローカル」がなければ社会は成り立たない

この、「集団」を重視する「ローカル」と、「個人」を重視する「グローバル」は、どちらのほうが良いというわけではなく、「ローカル」が重視されると個人が尊重されない社会になり、「グローバル」が重視されると社会が衰退していく、という見方をしている。

両者はトレードオフであり、どちらも重要なものだが、どちらにも問題がある、という見方だ。

詳しくは「なぜ若者や氷河期世代は革命や労働運動を起こさないのか?」などの過去記事を見てほしいのだが、「国家と個人だけ」とか「グローバル市場と個人だけ」といったような「ローカル」が欠如した状態だと、「集団のため」にリソースが使われる余地がないので、長期的には社会が成立しなくなってしまう。

しかしながら、「ローカル」は個人を否定する加害的なものでもあるので、「ローカルが大事」と単純に言うこともできないのだ。

ここで言いたいのは、日本円のような「グローバルな信用」は、個人を重視する性質があるゆえに、個人である我々は望ましいものと思いやすいが、しかしその影響が強すぎると、「ローカル(社会に不可欠なもの)」が否定され、マクロでは社会が衰退に向かってしまう、ということだ。

法定貨幣のような「グローバルな信用」が過度に重視される状態は、極端に言えば、周囲の人たちの信用を失う阿漕なビジネスで金を稼いでも、引っ越して遠くに行ってしまえば、稼いだ金は問題なく使えるので得をするような状態だ。

「グローバルな信用」には、個人を守るゆえに、利己的な行為を許すという性質がある。

特に悪質なビジネスということではなくとも、先に述べたように「貨幣」は出生を評価できないので、例えば、人口の再生産をしない都市部が地方から労働力を吸い上げていって、日本という社会集団全体では破滅に向かっている……といったことが現状で起こっている。

また、嫌な言い方だが、貨幣といった「グローバルな信用」によって接続された国民国家のような大きな集団においては、自分が子育てにリソースを使わずに貨幣を貯めて、老後もその貨幣を使ってサービスを享受し続ける、というのが個人からすれば合理的で、保守的な規範が否定される現代においてはそういう生き方が尊重されやすい。しかし、そういうふるまいをする人が増えれば、もちろん長期的には社会が成り立たなくなってしまう。

「ローカル(個人の否定かつ集団の重視)」は、個人にとって加害的なものであり、現代的な価値観においては忌避されるものかもしれないが、それが機能していなければ社会は存続することができない。


合理的に「ローカル」を再構築する

ここまで、

  • まず、「コストがかからないが客観性がない」のが「ローカルな信用」で、「コストがかかるが客観性がある」のが「グローバルな信用」になる。

  • そして、「ローカル」においては「集団」が重視されやすくなり、「グローバル」においては「個人」が重視されやすくなる。

ことを説明してきた。

先に引用した過去記事などでは、「ローカル」も「グローバル」もどちらも重要なものだが、今の社会は「個人(グローバル)」の過剰によって苦しくなっている状態なので、もう少し「ローカル」を評価しようとする必要がある、というようなことを主張している。

そして、これから「ローカル」を合理的に再構築していくためには、「コストがかからない」という「ローカルな信用」のメリットのほうに着目するのが良いと考えている。

これは、別の言い方をすれば、今の社会において、本来であれば「ローカルな信用」で行ったほうがいい場面でも、貨幣や法律のような「グローバルな信用」が過剰に使われていて、そのぶん無駄なコストがかかっているということだ。

まずは説明のために極端な例を出したいのだが、「ローカル」が特に重視される典型的な場として「家庭」が挙げられるだろう。

家庭内において、思いやりや愛情などの「ローカルな信用」で行われている、家事、育児といったような仕事を、もし仮に、日本円のような「グローバルな信用」を介して行ったならどうなるかを、ここでは考えてみるとする。

その場合、家事や育児や、言語化されない雑務や配慮のようなものを、すべて客観化・明文化して、値段を交渉し、貨幣を介してやり取りをして、取引を記録し、申告や納税を行うことになるだろう。

これをした場合のメリットは、個人の権利が守られやすくなることだ。どちらかが多く負担をしていた場合、それが「収入の差」という形で客観化されることになる。また、家庭内で稼いだ日本円は、その家庭の外に出ても、日本円として使うことができる。

一方でデメリットは、タスクを可視化・明文化するコスト、交渉するコスト、取引を記録するコスト、税金などのコストが増えることだ。実態として行っている家事や育児などの仕事がまったく変化しなくとも、日本円を介するだけでものすごくコストが増えることになる。

このように考えると、家庭内の場合は、日本円を介するメリットとデメリットとで、「コストが増える」というデメリットのほうがどう考えても大きくなるだろう。

また、先に述べたように、子供というのはそもそも貨幣を介した取引のルールから外れた存在なので、家庭は貨幣を介するのに特に不向きな場と言える。

家庭内という「ローカル」では日本円を介するデメリットのほうが大きくなるのだが、ただ一方で、関わる人数が増えて「グローバル」な状況になるほど、客観的な信用である日本円などを介するメリットが大きくなっていく。

多くの人が関わる市場のような場は、「日本円」のような客観的な信用を介さないと、運営するのが難しい。

つまり、集団の規模が小さい場合は「ローカルな信用」が適していて、集団の規模が大きい場合は「グローバルな信用」が適していることになる。

ここまで述べてきて言いたかったことは、本来であれば「ローカルな信用」のメリットが上回る小規模な活動の場合でも、「グローバルな信用(つまり日本円)」を使って取引されているのが、今の日本のような社会であるということだ。

現在は、家庭内を一歩出れば、貨幣(日本円)を介する領域が広がっていて、そのような状況であるからこそ、「ローカル」が機能不全に陥っていると言える。

逆に言えば、これから「ローカル」を再構築しようとするなら、日本円のような「グローバルな信用」を意図的に否定するというやり方が適しているということだ。

先にリンクを貼った過去記事などでも述べてきたことだが、住環境やインフラや治安のようなものはそれ自体が「ローカル」な性質を持っていて、市場において交易できる対象にならないので、貨幣といった「グローバルな信用」を介すると、そもそも適切に評価されにくい。

素朴に「集団のため」になりやすい「ローカル」な仕事ほど、貨幣を介すると割が悪くなる。

例えば、手に入れた評価を、別の地域や海外に行っても同じように使うことができるというのが日本円のメリットだが、ほとんどの時間をその地域で過ごすのであれば、それほど日本円に依存する必要はないし、税金が取られるなどのデメリットのほうが大きくなり、貨幣に頼る程度を減らしたほうがメリットが大きくなるかもしれない。

また、現在はコミュニティビジネスなどもよく見られるが、それが日本円のような「グローバルな信用」を介して行われている場合、構造的に主催者の一人勝ちみたいなことになりやすい。参加者側が騙されたと感じても、日本円で料金が支払われていれば主催者は勝ち逃げしやすいからだ。一方で、ローカルに生産物を融通しているほどそういうことは起こりにくくなる。

以上のような理由で、これから「ローカル」を再構築していくためには、意図的に日本円を否定して、自給自足や物々交換のようなものを重視したり、もっと「グローバルな信用」の程度を落とした地域通貨などを利用するべきと考える。

ただ、それが単に望ましいと考えているのではなく、「ローカル」を重視すると、その場から離れにくくなるなどのリスクが高まる側面もあり、それほど良い話というわけでもない。しかし、諸々のデメリットを踏まえても、「ローカル」が機能しないともう社会はどうしようもない、という考え方をしている。

これからの日本において、市場のルールのもとでビジネスに勝つための努力をするなどしても、少子高齢化や老朽化していくインフラといったような問題に対処することは不可能で、むしろ貨幣を否定することで市場のルールそのものに対抗するような、ローカルの再構築のための努力をする必要があるというのが、当noteの他の記事や、「べーシックインカムちゃんねる」などでしている主張になる。

なお、「貨幣を否定することによるローカルの再構築」については、「働くのがつらい理由とそれを解決する方法」や「なぜ若者や氷河期世代は革命や労働運動を起こさないのか?」という当noteの過去記事で説明している。

また、「べーシックインカムを実現する方法」というサイトを公開していて、その第5章で詳しく論じているので、よければ読んでみてほしい。 


「日本円を否定する人が増えればインフレになる」という問題

この動画でこれから扱いたいのは、日本円のような「グローバルな信用」を意図的に否定して「ローカル」を再構築しようとするとして、「それをやったらインフレにならないか?」という問題だ。

結論としては、「インフレになりやすい」だろう。

この記事では、日本円を「グローバルな信用」であるとしてきたが、日本という国家自体は「ローカル」な性質を持っているし、実際に、今も国家は子育てやインフラなど「集団のため」に支出をしている。

だがその一方で、日本という国家は、日本円という通貨を「グローバルな信用」のあるものにするために苦心してもいる。これについて、以降で説明していきたい。

まずここでは、「貨幣価値の高さ」を「グローバルに信用されている度合い」であると考える。

つまり、「ローカル」と「グローバル」との対立において、「グローバル」の側を重視するほど貨幣価値が高くなりやすく、逆に「ローカル」の側を重視すると貨幣価値が低くなりやすいということだ。

「その貨幣の価値がいかにして決まるか?」に関しては、非常に多くファクターがあるし、貨幣はそれ自体が投資対象でもあるので短期的な予測は不可能なのだが、非常に大まかに言うと

  • 「競争に勝っていること」

  • 「ルールを守っていること」

この2点がしっかりしている国の法定貨幣は、貨幣価値が高くなりやすい(つまりグローバルに信用されやすい)と言える。

まず、ここで言う「競争に勝っていること」というのは、日本に税金を納めている日本企業がグローバルな競争に勝っているほど、日本円が強くなりやすいということだ。

トヨタやソニーのような日本企業の商品が海外で売れているほど日本円の価値が高くなりやすく、日本企業の商品がシェアを減らしていけば日本円の価値が低くなりやすい、という話で、これはみんなが何となく感覚として理解していることではあるだろう。「経済力=通貨の信用」といったような考え方だ。

次に、「ルールを守っていること」だが、ルールというのは、例えば人権や国際法だ。

個人の権利を蔑ろにするような独裁的な国家や、国際的なルールよりも自国のローカルな事情を重視しようとする国家は、基本的にはマーケットから信頼されず、その国が発行する通貨も「グローバルな信用(貨幣価値の高さ)」を得にくい。

国家は、例えば、権力を発揮して、急に国内にいる企業にめちゃくちゃな税金を課すといったようなことが不可能なわけではない。しかし、そういう無法なことをやりそうな近代化があまり進んでいない国家・政権が安定していないような国家は、リスクがあると見なされて市場から高く評価されないし、自国通貨を持てなかったり、持てたとしても貨幣価値が高くなりにくい。

グローバルなルールを守らなければ、グローバル市場からの信用を得られにくいということだ。

そして、このグローバルなルールには、「財政収支(プライマリーバランス)」や「公開性」というものも含まれる。

国家のプライマリーバランスをごまかさずに対外的に公開して、その赤字が大きくなりすぎないようにすることも、法定貨幣の価値を高めるためには必要だ。

財政収支の公開性を蔑ろにしたり、数字をごまかしているかもしれないと対外的に思われると、それも「グローバルな信用」を失う要因になる。

また、税収に対して国家の支出が大きすぎる(つまり財政収支の赤字が大きくなりすぎている)というのも、国家が自国の「ローカル」な権限を過度に機能させて、特に根拠なく信用を発行している度合いが高いということなので、「グローバルな信用」を失いやすい(貨幣価値が低くなりやすい)要素と言える。

つまり、貨幣価値(日本円の価値の高さ)を維持するために、日本政府は、財政収支の赤字が極端に大きくなりすぎることを避ける必要があるのだ。


「積極財政(ローカル)」か「緊縮財政(グローバル)」か

ここからは、財政収支について論じていきたいと思う。

「積極財政」か「緊縮財政」かというのは、現在の政治的な争点になりやすいトピックだろう。

国家が支出を増やす「積極財政」は、出生支援などの「ローカル」を強める可能性を持つ政策だが、財政収支の赤字が増えて、貨幣価値が低下しやすくなる。

それに対して、支出を抑える「緊縮財政」は、貨幣価値(グローバルな信用)を維持しようとするものになる。

つまり、この動画で述べてきた「ローカル」と「グローバル」との対比において、「積極財政」が「ローカル」を重視する側、「緊縮財政」が「グローバル」を重視する側になる。

国家という「ローカル」の権限を強く打ち出すのが「積極財政」で、対して、「グローバル」からの評価を意識するのが「緊縮財政」という見方だ。

長期的な国力向上のためには、国家が支出を増やして、子育て支援やインフラ整備などにリソースを厚く振る必要がある。ただ、そうやって税収に対する支出の量を増やすと、無根拠に信用を作り出していると見なされやすくなり、マーケット(グローバル市場)からの評価が下がって、日本円の価値が低下しやすくなる。

あるいは、支出の量自体を増やさなくても、現状の支出先のバランスを変えて子育て世帯に厚く振るというのも方法のひとつかもしれない。しかしそれは、過去の制度上の約束や金利の支払いなどを反故にすること、つまり「ルールを守らない(権利を無視する)」ことになりやすく、いずれにしても「グローバルな信用」に反する。これについて述べると話が複雑になるので、ここでは単純化して、ローカルを重視する「積極財政」か、グローバルを重視する「緊縮財政」か、という視点で説明する。

ここで指摘したいのは、長期的な国家の繁栄を目指すならば「積極財政」に舵を切るべきだが、それをやるとグローバルな信用が下がって(つまり日本円の価値が下がって)、今生きている人たちの生活水準が下がる、という構造があることだ。

日本は輸入に多くを頼っている国なので、円の価値が低下すると生活水準も下がりやすい。もちろん日本以外の先進国も似たような状況だ。

つまり

  • 積極財政(財政支出を増やすこと)は、長期的な日本の国力という「ローカル」を強めようとする一方で、グローバル市場に低く評価されるリスクを負うもの

  • 緊縮財政(支出を絞ること)は、「グローバル」からの評価を重視し、現在の貨幣価値(国民の生活水準)を守ろうとするもの

という対比になる。

「投資家は長期的な国力を評価しようとする」という観点もあるかもしれないが、基本的に市場からの評価は短期的なものになりやすい。詳しい説明は割愛するが、国家の繁栄は個人というスパンを超えた長期的な集団の問題なのに対して、市場のプレイヤーは個人であり、マーケットは「短期」を志向するという性質がある。

ようするに、長期的に集団を強くしうる政策に舵を切ると、短期的な生活水準が悪くなりやすい、という形で、集団の加害性に歯止めをかけるのが、グローバル市場(資本主義)の原理であるということだ。

もっともここでは、長期的な集団の繁栄を目指すべきか、現状の生活水準を維持すべきか、というのは価値判断の問題であり、優劣はないと考える。

ここまでの話を聞いて、あるいは社会が崩壊していく日本の現状において、「長期的な集団のためを重視するほうが大事」と思う人は多いかもしれないが、「ローカル」はそもそも個人にとって加害的なもので、それほど良いものではない。

また、もし「グローバル」の作用が働かずに、ほとんどの国が「ローカル」を機能させて集団の力を強めようとしたなら、人口爆発に歯止めが効かなくなり、それはそれで大変なことになるだろう。

当noteの過去記事などで何度も述べてきたことではあるが、日本のような国はさすがに少子化が進みすぎているのでもう少し「ローカル」を強める必要があるが、だからといって「ローカル」が望ましいと考えているわけではない。

ここでは、「ローカル」と「グローバル」のうち、どちらのほうがより望ましいとは考えず、相反関係にある両者を、どちらも重要だが、両方に問題点があるものと考えている。


資本主義は「ブレーキ」として作用する

なぜエッセンシャルワーカーの給料が低いのか?社会に必要な仕事が市場に評価されない理由」などの当noteの過去記事では、ここで説明してきた「ローカル」を、自動車などにおける「アクセル」に喩え、「グローバル」を「ブレーキ」に喩えて説明してきた。

このような見方において、ナショナリズムが「アクセル」になるのに対して、グローバル市場はそれを抑える「ブレーキ」であることになる。

ただ、グローバル市場(資本主義)が「ブレーキ」として働くと言うと、疑問に思う人が多いだろう。

「実は市場競争がブレーキになる」という考え方に関しては、先に貼った過去記事へのリンクを参考にしてほしい。

このような見方においては、資本主義は加害性を抑える「ブレーキ」ということになるのだが、例えばマルクスなどの本を読んで勉強した人からすれば、普通は「資本主義が加害的なもの」という認識になると思う。

実際に、資本主義に駆り立てられて国家が侵略戦争を繰り広げた歴史を見れば、資本主義に加害的な側面がないと考えるのは難しいだろう。

この内容に関しては、「べーシックインカムを実現する方法」というサイトの第6章で扱っていて、現時点ではそこに最も詳しく書いてあるので、詳細が気になる方はそれを読んでほしい。

ここで概要を簡単に述べると、資本主義における「自己利益の追求」という部分は、むしろ加害性を抑える働きをしてきたという見方をしている。

例えば、前近代に行われていたような、宗教や民族の違いなどから起こる利益目的ではない侵略と、資本主義による利益目的の侵略とを比べたとき、もちろんどちらも加害的な行いであることは間違いないのだが、利益目的であったほうがその加害性の程度は抑えられやすいと考える。なぜなら、ただ相手を打ちのめしただけでは利益になりにくいからだ。

利益を追求するならば、侵略した先を単に蹂躙するのではなく、現地の人間を教育して、近代的な価値観や合理的な考え方をある程度は理解させる必要がある。

そのため、資本主義に駆り立てられた侵略には、各地域の封建的な仕組みを解体して世界中の近代化を進めようとする動き、という側面もあった。

「資本家が利益を追求する」というイメージから、資本主義は強欲で加害的なものに思われやすいが、「利益を追求する」からこそ侵略先の相手をいたずらに加害するような野蛮な行いには制限がかかり、それ自体は「ブレーキ」として作用していたということだ。

そして、現代においても、資本主義は、国家権力に対して「ブレーキ」をかけている。

例えば、人権や市場のルールを無視するような独裁国家は、たとえ資源などを豊富に持っていても、市場からの評価が高くなりにくく、生活水準が上がりにくい。

そして、生活を良くするためにグローバル市場のルールとそれに付随する近代的価値観を受け入れることで、それをした国の出生率などが低下していく。

このような「資本主義(ブレーキ)」の作用によって、人権が守られ、人口爆発が防がれていて、これは基本的に望ましい作用なのだが、ただ、「ブレーキ」が強くなりすぎるのも問題がある。

今の日本社会における現実的な問題として、我々は資本主義という「ブレーキ」に直面している。

「積極財政によって出生支援などをすれば将来の国力に繋がるが、それを行うと円がインフレして生活水準が大きく悪化してしまう可能性があるので、二の足を踏んでいる」というのが日本の現状だからだ。

資本主義(グローバル市場)の作用は、「ローカル」という「アクセル」を強めようとした国家に対して、「グローバル」からの低評価(つまり貨幣価値の低下)というペナルティを与えるというもので、ゆえにそれが「ブレーキ」として働く。

これによって国家権力の暴走などが防がれるのだが、同時に、長期的な社会存続のための基盤である「ローカル」が弱まっていく。

また、「資本主義が加害的なもの」というイメージには、それが「ローカル」という生活の基盤を解体していくから、という理由もあるだろう。

資本主義は、加害性を抑える「ブレーキ」として作用するからこそ、その影響が強くなりすぎると「ローカル」が弱まって社会が成り立たなくなってしまい、それが個人にとって加害的なものに感じられるかもしれない。


「積極財政」と「円の否定」はどちらも「ローカル」

今の社会において、日本円のような貨幣が「グローバルな信用」を維持していることが、単純に望ましいことであると考えている政治家や役人が多いかもしれない。もちろん、貨幣価値の安定が長期的な社会の発展にとって重要なものであることを否定するつもりはない。

ただ、ここで指摘してきたのは、貨幣価値の高さという「グローバルな信用」を維持しなければ生活水準が悪化してしまう作用こそが、長期的な国力向上に繋がる試みを行えなくしているという構造だ。

グローバル市場から高い評価を得られなければ生活水準が下がってしまう資本主義の作用が、まさに「ブレーキ」として働いていて、短期的な生活水準を人質に取られるような形で、長期的な集団のための試みが難しくなっているのが現状なのだ。

今の日本の状況は、次のようなものになる。

  • 輸入に多くを頼っている日本は、円の価値が生活水準に直結しているが、日本円の価値を維持しようとするからこそ、じわじわと自力が衰えていって、いずれにしてもインフレは少しずつ進んでいく。

  • しかし一方で、ジリ貧の状況を打開するために積極財政を打ち出そうとすると、今度は一気にインフレが進んで、生活が悪くなる可能性が高い。

これが現状の日本であり、これ自体は基本的にもうどうしようもない。

ただ、状況は悪くなり続けていくので、積極財政に踏み切るならタイミングは早いほうがいいだろう。

これは、積極財政が経済学的なセオリーとして正しい、といった話ではなく、大変なことになる可能性が高いが、それでも後回しにするほどダメージが大きくなるので早めにやったほうがいい、という話だ。

しかしこのような問題には、何とか逃げ切ることができるかもしれない世代と、どうやっても逃げ切れない世代の対立、みたいな論点もあるかもしれない。

現状の日本が、政治的な決断として積極財政に舵を切れるのかというと、それは難しい。

今の日本はただでさえインフレが少しずつ進んでいるし、さらにインフレを大きく進めるリスクのある政策を嫌う人は多いだろう。

ただ、この記事の前半では、日本円を否定することによるローカルの再構築について述べてきた。

日本政府の主導によって「ローカル」を機能させようとするのが積極財政であるとして、それが難しくても、もっと小さな規模で「ローカル」を重視しようとする動きを起こすことは可能だと考えている。

国民が各自の判断で日本円を否定して、子育てやインフラなどの「集団のための仕事」を重視しようとする試み(ローカルの再構築)は、社会に与える影響としては、国家の「積極財政」と似たような性質のものになる。

日本円のような法定貨幣を否定する試みは、日本という国家への反逆と思われやすいかもしれないが、これはむしろ、国家に反抗しているのではなく、国家すらも規定する「グローバル」に反抗している、という側面が強い。

「ローカルの再構築」は、国家の課題である出生率やインフラなどの問題を自主的に解決しようとする動きであり、国家にはそこまで嫌われにくく、むしろ歓迎される部分もあるだろう。これは、伝統社会とナショナリズムの相性がそこまで悪くない、といったような話だ。

つまり、日本円を否定しようとする試みは、率直に考えると国家への反抗に思われやすいが、むしろ「ローカル」を強めようとする点においてナショナリズムに近い性質を持つ、ということになる。

「ローカル」と「グローバル」という対比で考えると、「積極財政」も「日本円の否定」も、どちらも「ローカル」を強めようとする動きであり、インフレという「グローバル」からのペナルティを負って、「集団のための仕事」を重視しようとする試みになる。

ここでしてきた話について、まだ説明は足りないと思うが、かなり長くなっているので今回はここまでにする。

財政やグローバル市場に関連する話も、また記事を更新していきたいと考えている。

よければ、当noteの他の記事や、youtubeチャンネルの動画も参考にしてほしい。


まとめ(日本円を使うメリットとデメリット)

  • ここでは、日本円のような法定貨幣を「グローバルな信用」として、それに対して、属人的信用など特定の人たち同士の間や特定の場でしか機能しない「ローカルな信用」とを対比させ、それぞれのメリット・デメリットを考える。

  • 「グローバルな信用」のメリット・デメリットは「客観性があるがコストがかかること」であり、「ローカルな信用」のメリット・デメリットは「コストがかからないが客観性がないこと」である。

  • 「ローカルな信用」が影響力を持つ場は「集団のため」が重視されやすく、「グローバルな信用」が影響力を持つ場は「個人のため」が重視されやすい。

  • 現在は、社会の存続が不可能になる(集団のための仕事が成り立たない)ほど、「グローバル(個人のため)」が重視されていて、それは「グローバルな信用」の過剰適用という形で現れている。本来であれば「ローカルな信用」のメリットが上回る場面においても、「グローバルな信用(貨幣や法律)」が使われているのが、現状の社会である。

  • 「ローカルを再構築」のためには、意図的に「法定貨幣(日本円)」を否定するというやり方が適しているが、しかし、「それをやるとインフレになる」という問題が生じる。


まとめ(円を否定すると起こるインフレのリスク)

  • 「ローカルな信用」と「グローバルな信用」とで、「グローバルな信用」が重視されるほどその国の法定貨幣の価値が高くなる傾向にあり、つまりそれは、法定貨幣(日本円)の価値を守ろうとするほど「ローカルな信用」が否定されてしまいやすいということだ。

  • 国家の「積極財政」と「緊縮財政」において、「積極財政」が「ローカル」を重視する側、「緊縮財政」が「グローバル」を重視する側になる。

  • 国家は、「積極財政」によって、出生支援やインフラ整備など、国内の「集団のため(ローカル)」を重視することができる。しかし、それをやりすぎて財政収支の赤字が大きくなると、マーケットから法定貨幣が低く評価されやすくなる。

  • 貨幣価値(生活水準)を維持するために、財政収支を意識しなければならなくする「グローバル市場(資本主義)」の作用は、国家が「ローカル」を強めることに対して「ブレーキ」をかけている。

  • 集団が「ローカル」を強めようとすると、「グローバル」から「インフレ(貨幣価値の低下)」というペナルティを受けることになり、この作用によって、資本主義は実は「ブレーキ」として機能している。

  • 国民が各自で日本円を否定して「ローカルを再構築」しようとすることは、国家が「積極財政」によって長期的な国力を重視するのと同じような性質を持つ。どちらも「集団のため(ローカル)」を重視しようとする試みだが、それゆえに「グローバル」に反し、インフレになりやすい。

  • 「日本円を否定する」試みは、日本という国家に反抗するものと思われやすいが、実際には、国家をも規定する「グローバル」に対する反抗になり、「ローカルを重視する」という点においては、むしろナショナリズムに近い性質を持つ。


今回は以上になります。

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