なぜ若者や氷河期世代は革命や労働運動を起こさないのか?
今回は、「なぜ革命が起きないのか?」について論じたい。
革命というような過激なものとは言わずとも、せめてデモやストライキや、労働運動や政治運動のようなことがもっと起こってもいいのではないか、と考えている人は多いと思うが、そういう運動がなぜ起こらないのかを説明する。
そして、「なぜ革命が起きないのか?」を説明した上で、「革命を起こすためには何をすればいいか?」についても言及する。
革命や労働運動を起こそうとしない若年層や氷河期世代
日本社会は、このままいけば衰退していくのが確実で、膨らみ続ける社会保障費などの税金は、それを我慢すれば将来が報われるというものではなく、将来に繋がるリソースを食いつぶすことで現状が維持されているという性質のものだ。
これは、後の世代のことを考えればこそ、現状を変えようとするアクションを起こさなければならない事態と言える。
しかし、現代に生きる若者のほとんどは、何らかの革命や改革が可能とは考えていないだろう。
順応性や体力や労働力などは若年層のほうが多く持っているはずなのに、既存のシステムに雁字搦めにされた今の社会において、自分たちの力で社会を変えられると考えている若者は少ないし、何かを変えようとする動きもそれほど起こっていない。
あるいは、就職氷河期世代は、「新卒採用時に不況だった」「世代人口が多いので少ない椅子を争わなければならなかった」などの理由で貧乏くじを引かされたという感覚を持っている人が多く、現在も「氷河期世代」というワードはネット上などで一定の影響力を持っている。
ただ、世代人口が多く、共通の被害体験や問題意識を持っていることは、政治的な影響力を発揮する上では有利に働く。
氷河期世代が団結して政治運動などをしていれば、自分たちに有利なように社会を変革していくことはやりやすかったはずだが、しかし、そのような試みは起こらなかった。
なぜ氷河期世代は革命を起こせなかったのか、あるいは、なぜ現代の若者は革命を起こさないのか?
その理由は、一言で言うと、「自由化が進んだから」だ。
自由になったから、革命や労働運動のような、集団で団結して待遇の改善を勝ち取ろうとする試みが構造的に難しくなってしまった。
自由になったから団結できなくなった
ここで言う「自由化」というのは、住居や職場を移動しやすくなるなど、人材の流動化が進み、個人の自由が重視される社会になったことをそう呼ぶことにしている。
自由化が進んだこと自体は、決して悪いことではなく、むしろ望ましいことだ。
ただ、そうやって個人の自由が重視されるようになったからこそ、革命を起こすことが合理的ではなくなる。
自由化が進むと、「集団を率いて何らかの運動を起こす」といったようなことが、それを主導する当人にとって不合理な行いになる。
例えば、ストライキや労働運動などは、リーダーがそれを率いて、経営陣や資本家と交渉して、待遇の改善などを勝ち取ることで成功したことになる。
しかし、そんな運動を率いて成果を出せるような人間は、運動に使うリソースを自分が自由競争の勝者側になるために使えば、運動を主導するよりもずっと良い待遇を得られる。
身も蓋もない言い方になるが、自由化が進むほど、革命を主導して成果を出せる能力のある人間ほど、それをしなくても競争の勝者になって良い待遇を得られるという形で、集団で団結して何らかの運動を起こすことが構造的に難しくなるのだ。
逆に、なぜ過去に革命や労働運動のようなことが試みられたのかというと、かつてはそれほど自由な社会ではなかったからだ。
例えば、かつて士農工商と言われていたような、身分が固定されて、なおかつ貨幣経済もそれほど浸透していなかった社会において、自らの待遇を改善するためには、同じ仲間と団結して要求を通そうとするというやり方になりやすかった。
「自由競争の勝者になる」という選択肢のない不自由な社会だったからこそ、仲間たちと団結して一揆や革命のようなことを試みるしかなかったのだ。
それほど昔の話ではなくても、例えば、日本で労働組合が機能していた時期は、今よりも流動性の低い社会だった。
なぜかつては労働組合が機能していたのかというと、逃げ場がなかったからだ。一度入った会社を辞めると「年功序列」がリセットされて大きく不利になるような、転職をしにくい社会だったからこそ、自らの待遇を改善するために、団結して労働運動をするという形になった。
現在も「日本型雇用」がなくなったわけではないが、今は、いたるところで転職サイトの広告を見るように、「会社に不満があるなら転職しよう」という社会になっている。
そうであるがゆえに、労働運動を率いて成功させようとするよりも、そのリソースを自分自身の待遇を上げるために使ったほうがいい、という考えになりやすく、団結して要求を通そうとするような試みが構造的に難しくなった。
自由な社会になるほど、何らかの運動にコミットするよりも、スキルを磨いたり転職活動を行うなど、競争で他人よりも有利になるためにリソースを使ったほうが、その当人からして、自分自身の待遇が改善される可能性が高くなるのだ。
団結というのは、逃げ場のない、不自由な社会だからこそ起こるものだった。
そのため、例えば「フリーターの労働組合」や「フリーランスの労働組合」みたいなものは基本的には機能しない。その活動に時間を使うくらいなら、正社員を目指したり、年収を上げるための努力にリソースを使ったほうが合理的だからだ。
また、SNSで連帯する人たちの声というのも、特定の企業を炎上させたりすることはできても、「現実的な交渉をして集団全体の待遇を上げる」というものにはなりにくい。
ここまでの話をまとめると、
かつては、不自由な社会で逃げ場がなかったからこそ、集団で団結して待遇を改善しようとする試みが可能だった。
現在は、自由な社会になったからこそ、他人よりも自分が有利になるためにリソースを使うのが当人の立場からは合理的で、団結することが構造的に難しくなった。
ということになる。
ここで指摘したいのは、自由化が進んだからこそ、「集団のため」よりも「自分のため」にリソースが使われるようになり、社会全体を良くしていこうとする試みが行われなくなった、という構造だ。
これは、労働運動などに限らず、例えば「政治」全般においても同じ構造を指摘できる。
現在は投票率の低さが問題になっていて、「選挙に行きましょう」などと呼びかけられる。
ただ、状況を良くしたい個人の立場からして、どうすれば社会が良くなるかを考えて政治家の主張を真剣に比較検討するくらいなら、そんなことに使う時間と労力を、何らかの資格を取ったり出世するために使ったほうがずっと合理的だ。
自由競争に勝つことで個人の待遇が改善する今の社会において、投票や政治に自分のリソースを割こうとしないのは決して愚かなことではなく、むしろ現状の選挙の仕組みで何かを変えられると考えるほうが非現実的と言える。
このように、自由な社会になったことで、「政治」も機能不全に陥っている。
「自分のため(正しさ)」と「集団のため(豊かさ)」のトレードオフ
「べーシックインカムを実現する方法」や、過去に出したnoteの記事やyoutubeチャンネルの動画などでは、現代における「自由」という問題を俎上に載せようとしてきた。
個人の自由が尊重されることは、非常に重要なことなのだが、重要であるからこそ、それが問題になっていても、疑うことが難しくなっている。
そのような「個人の自由」をいかに疑うかというのが、問題意識のひとつとしてある。
ではどうやって「自由」を疑うかというと、個人の自由が尊重されることを「正しさ」と置いて、そのような「正しさ」と、「豊かさ」とが相反する、という見方を提示している。
「正しさ」は、それ自体に価値があるが、「豊かさ」が生み出した余剰を消費することで成り立つもの。
「豊かさ」は、「正しさ」に反するが、「正しさ」を可能にするもとの余剰を作り出すもの。
といった形で、「正しさ」を相対化しようとしているのだ。
過去記事などで説明してきたことと重複するが、この記事でも手短に説明しようと思う。(当noteの過去の記事などをよく読んでいる人は読み飛ばしてほしい。)
まず、時間や労力などのリソースは有限なので、それを「社会に必要な仕事のため」に使うか、「自分が他人との競争に勝つため」に使うかは、トレードオフの関係にある。
ここでは、「自分のため」と「集団のため」が素朴に一致するわけではないことに着目し、「正しさと豊かさが相反する」という形式化によって、現象を説明しようとしている。
例えば、「子供を産み育てる」ことは、社会の長期的な存続といった観点・「集団のため」という観点からは、最重要視すべき仕事だ。
しかしながら、出産や育児に多くのリソースを使った個人は、有利なキャリアを得にくいので年収などは低くなりやすい。
「集団のため」にリソースを使う人間は、「自分のため」が疎かになり、競争に勝てなくなってしまう。
一方で、現在は、「自分のため」にリソースを使うことが許される・推奨されるような社会だが、それゆえに「集団のため」にリソースが使われなくなり、出生率などが下がって社会全体としては衰退に向かっている。
ここでは、個人が「自分のため」にリソースを使うことが許されるような自由な社会を「正しさ」が重視される社会、個人が「集団のため」にリソースを使うことを強制されるような不自由な社会を「豊かさ」が重視される社会、であると考える。
このような見方をすると、近代的な社会では「正しさ」が重視され、伝統的な社会では「豊かさ」が重視されていたと言える。
このような見方において、現在の先進国で社会の存続が危うくなっている理由は、「正しさ(自分のため)」が重視されて、「豊かさ(集団のため)」が軽視されているから、であると考える。
個人の自由という「正しさ」が重視されるようになったからこそ、社会全体の「豊かさ」を追求できなくなっているというのが、今の日本のような社会の問題だ。
先に説明してきた「自由だからこそ革命が起こらない」という構造も、「自分のため」にリソースを使うことが許されるゆえに「集団のため」の試みが行われなくなっている、という話になる。
また、これも過去の記事などで説明してきたことなのだが、個人の主観では、「正しさ」と「豊かさ」が同一視されやすく、「自由な個人が一生懸命努力することで社会全体が豊かになっていく」という考え方になりやすい。
我々は、「正しいから豊かになる」という勘違いをしてしまいやすいのだ。
なぜそういう勘違いが起こるかというと、例えば、スポーツなどの競争で、それに勝つために努力している個人の主観からすれば、そういう努力をする人が増えることで、社会全体が向上していくように思いやすい。
しかし、スポーツのような個人が他人よりも秀でようとする競争に時間や労力が使われることは、社会全体のマクロな視点からすれば、リソースが空費されていることになる。
学力テストのようなメリトクラシーや、より多くの金を稼ごうとするビジネスも、スポーツの場合と似たようなもので、他人よりも秀でるための競争が過度に行われても、分配のもとになる余剰を作り出せたはずのリソースが競争のために使われることになって、むしろ社会全体は貧しくなっていきやすい。
逆に、伝統的な社会のような個人の自由が否定される社会は、無駄な競争が起こらずに「集団のため」の仕事にリソースが使われやすくなるので、実は社会が繁栄しやすくなるのだが、しかし個人の主観では、そのような自由を否定する硬直的な社会は「豊かさ」に反するものに思える。
このような勘違いをすると、近代社会のほうに「正しさ」と「豊かさ」が両方ともあって、伝統社会のほうは両方ともない、という考え方になりやすい。
しかし実際には、近代社会が「正しさ」で、伝統社会が「豊かさ」になるのだ。
このような、実は伝統社会が「豊かさ」を担保している、という話については、納得できないという方も多いかもしれないが、「競争を疑うのが難しい理由(近代的理性が本能を肯定するという話)」などのnote記事で詳しく説明しているので、よければ読んでみてほしい。
「自由競争によって社会が豊かになる」という考え方で生活が苦しくなり続ける
ここまでの説明で何が言いたかったかというと、「自由競争を疑うのは難しい」ということだ。
現在、「これからの日本はヤバい」という認識は多くの人が持っているだろうが、それに対して、例えば、「だから◯◯円の貯金を稼いでおく必要がある」みたいなことが言われる。
このようなものが自由競争が重視される社会の考え方で、全体をどうにかしようというよりは、「相対的な競争の上位になって自分だけは何とか切り抜けよう」というふうになりやすいのだ。
しかし、社会が衰退していって労働力が希少になれば、相対的な貯金の価値も下がっていくので、「◯◯円の貯金を稼いでおく必要がある」のハードルが上がっていく。
「正しさ」のためにリソースが使われて「豊かさ」が失われていくことは、分配するもとの余剰(社会を支える人口や労働力)が減っていくことであり、各々が自分だけは助かるために自己防衛を図る(自由競争の勝者を目指す)からこそ、クリアの基準が上がり続ける。
より多くの人が「集団のため」ではなく「自分のため」にリソースを使うような状況は、「分配するもとの余剰が減っていく一方で、分配の優先権を争う競争が激しくなっていく」というようなもので、みんなが必死に努力しているからこそ、生活が苦しくなり続けていくのだ。
ただ、そういう全体の構造に問題意識を持っていたからといって、個人の立場からすれば、自分が競争に勝つためにリソースを使わなければ、自分自身が不利になってしまう。
競争社会においては、「それを疑って競争をやめようとした人間が競争に不利になってしまう」という構造によって、社会を疑うことが難しくなっているのだ。
ここで指摘している問題は
「自分のため」にリソースを使う人が増えると、「集団のため」の仕事が蔑ろにされて、社会全体が衰退して結局は全員が苦しくなってしまう。
だからといって、「集団のため」にリソースを使おうすると、それをやろうとした当人が社会的に不利になってしまう。
といったものになる。
このような状況を打破しようとするとして、例えば、国家権力にはそれができる可能性がある。
国家は、その権力を機能させて、出生支援やインフラ整備を行うなど、「自分のため」よりも「集団のため」にリソースが使われやすいような状況を作り出すことができる。
しかし今は、政治家の多くも「自由競争によって社会が豊かになる」といった考え方をしていて、競争を否定する政策ではなく、競争を促進するような政策を進めがちだ。
例えば、「ふるさと納税」といった制度がある。
「ふるさと納税」は、都市と地方の格差の解消みたいな論点はあるにしても、総合的には、国家による政策としては褒められたものではないと考える。
税金をめぐって自治体同士を競争させても、日本全体で見れば競争のための無駄なコストが増えることになる。競争に負けた自治体(競争に勝てないような自治体)も何とかしなければならないのが「国家」の役割であり、そのような国家がむやみに競争を煽る背景には、「自由競争によって社会が豊かになる」という考え方が前提にあるのだと思われる。
今は、自由競争に評価されないものを評価する役割を求められている政府が、競争を促進するような政策を進めているのだ。
ただ、「ふるさと納税」のような制度は、金を持っている個人からすれば不満が出にくい。
「政府の政策にぐちぐち文句を言うくらいなら、制度を賢く活用して返礼品をもらったほうが得」といった形で、つまり、個人の立場からすれば「社会全体のこと」よりも「自分のこと」を考えるほうが合理的で、政府もそれを後押ししているような状況なのだ。
そういう状況を転換するための方法が「政治」や「投票」になるが、先に説明してきたように、まさに「政治」に多くのリソースを使おうとすることが、それをやる当人からすれば、「自分のため」に使えたリソースを消費して自分を不利にしまうという構造がある。
では、このような構造に対して、それを打ち破る革命の方法があるのかというと、「ある」と考える。
その革命の方法について、以降で説明していく。
革命のために何をすればいいか?
ここで説明する革命の方法は、「べーシックインカムを実現する方法」というサイトの第5章で説明している。
ただ、サイトのほうの説明はかなりの長文になる(前章から読まないと第5章もわからない)ので、ここでは、それがどういった内容なのかを手短に紹介しようと思う。
革命のために何をすればいいのかというと、「ローカルの再構築」だ。
ローカルを再構築して、「集団のため」と「自分のため」が近い状況を作れば、「集団のため」にリソースが使われやすくなると考える。
ここで話してきた「自由(正しさ)」の問題は、「集団のため」よりも「自分のため」にリソースを使うことが合理的になるゆえに、集団全体を良くしていこうとする試みが行われなくなり、社会が衰退して生活が苦しくなっていく、といったものだった。
この、「集団のため」よりも「自分のため」にリソースを使うほうが合理的な状況は、集団の規模が大きいことによって起こる。逆に、集団の規模が小さくなるほど、「自分のため」よりも「集団のため」にリソースが使われやすくなる。
ここでは、集団が大きいほど「自分のため」にリソースが使われやすくなり、集団が小さいほど「集団のため」にリソースが使われやすくなる、と考える。
集団が小さい場合の顕著な例は「家族」だ。自分の家族のためにリソースを使うのは、当人としても当然のことに感じるだろう。
また、近所付き合いなどが機能している地域社会は、その地域に貢献することで、自分の属人的信用が高まるなどの恩恵があるので、「集団のため」にリソースを使うことが報われやすいと言える。
集団の規模が小さい場合、「集団のため」と「自分のため」が近くなるので、「集団のため」の行いが「自分のため」にもなりやすいのだ。
一方で、集団の規模が大きい場合、「集団のため」と「自分のため」が遠くなって、「自分のため」にリソースを使うインセンティブが高まる。
国家やグローバルのような大きな規模になると、社会全体を良くしようとするよりも、阿漕なやり方でもいいから金をたくさん稼いで、インフラや治安が整っているところに引っ越す、というようなふるまいが個人にとっては合理的になりやすい。
単純化して、例えば、「集団全体に100ポイントの利益が入る行い」か「自分だけに1ポイントの利益が入る行い」か、という選択肢があったとする。
この場合、集団が100人より少なければ、全体に100ポイントの利益が入る行いのほうが、自分が得られるポイントが多くなり、集団が100人より多ければ、自分だけに1ポイントの利益が入る行いのほうが自分が得られるポイントが多くなる。
もちろん、人間はそれほど利己的ではなく、モラルや公共心を持っているし、集団の規模が1000人、1万人となっても、自分だけに1ポイント入る行いよりも、全体に100ポイント入るような行いを選ぶ人は少なくないだろう。
ただ、これも程度問題であって、10万人、100万人と集団の規模が大きくなっていくほど、「自分だけ」が利益を得られるふるまいをする人が増えていくという構造がある。
ここでどういうことを言いたいのかというと、社会には「ローカル」が不可欠であるということだ。
「国家と個人だけ」のような、ローカルの存在しない大きすぎる集団は、「集団のため」にリソースを使うインセンティブがないので、社会が機能不全になっていく。
そもそも「国政」というのも、代議制民主主義という形で「ローカル」の意見を代表する政治家を送り出すという形で機能してきたものであり、その枠組み自体は現在の選挙制度にもまだ残っている。
ローカルが機能していて、そのローカルを代表する者を送り出すという形で国政が成り立つのだ。
今の政治は、「個人個人で国政について考えよう」というものだが、ローカルをすっ飛ばして国家全体のことを考えようとすること自体にそもそも無理がある。
「ローカル」がなくなれば、「集団のため」にリソースを使う動機もなくなり、社会や政治が機能しなくなってしまう。
合理的な「ローカルの再構築」
過去の伝統的な社会において、「ローカル」は強制されてきたものだった。
かつては、家族や地元から抜け出しにくかったり、会社を辞めにくいような、流動性の低い社会であることによって、「自分のため」よりも「集団のため」にリソースを使わなければならない「ローカル」が担保されていた。
そのような伝統的な社会から開放されて、個人の自由が尊重される社会になったのは「正しい」ことだが、その一方で「豊かさ」からは遠ざかってしまう、という説明をこの動画ではしてきた。
ただ、ここで言う「革命」というのは、「伝統的な価値観を再び取り戻す」といったことを意図しているわけではない。
過去のローカルは、近代化や情報化が進む以前の閉鎖的な環境だったからこそ成り立っていたものであり、現代にそれを蘇らせようとするのは無理がある。
とはいえ、ここまでの、「集団のため」にリソースが使われなくなると全員が苦しくなっていくという話を踏まえれば、近代化と情報化が進んで個人として思考するようになった現代においても、合理的に「ローカル」を再構築する試みが成り立つ余地があるのではないかと考える。
「ローカル(集団のためにリソースを使いやすい状況)」がなければ、生活が苦しくなり続けていくし、いずれは社会そのものが崩壊してしまうからだ。
ここでは、「ローカルの再構築」を、手放しで望ましいものとしているわけではなく、むしろそれは「正しさ」に反するものであるとしている。
ただ、そのメリットとデメリットを秤にかけて、「ローカル」に活動することのメリットのほうが上回るような場面が、これからの社会では増えていくのではないかと考える。
ではどういう場合に、ローカルを再構築することのメリットが、そのデメリットを上回るのかというと、これについては、前提として説明しなければならないことが多くあるので、また機会を改めて論じたいと思う。
「べーシックインカムを実現する方法」というサイトのほうにはすでに全部書いてあるので、先に内容を知りたい方はサイトのほうを読んでみてほしい。
また、これについても詳しいことは別の機会に説明するつもりだが、「ローカルの再構築」がどういう形で行われるかというと、「貨幣を否定する」という形になる。
「貨幣」は、「ローカル」を超えて大きな集団を形成する「グローバル」な性質のものだからだ。
グローバルな市場において貨幣を介して取引をすることで、交易によって世界中が繋がる大規模な協力関係・信頼関係が成り立ち、そのような貨幣の作用は、現代では、無条件に良いことであると思われがちだ。
しかし、ここで説明してきたように、貨幣によって「ローカル」が否定されることには、「集団のため」にリソースを使うことが構造的に難しくなるという、大きなデメリットがあるのだ。
「貨幣」が「ローカル」を否定するのに対して、「住環境、インフラ、治安、周囲の人たちとの人間関係」などの、素朴な生活の安心や豊かさに繋がるものは、「ローカルな(場に縛られる)」性質を持つ。
豊かさを底から支えるものは、そもそもが「ローカル」な性質を持っているのだ。
そのため、ここで言う「革命」は、グローバルな性質を持つ「貨幣」を否定して、住環境やインフラなど、直接的に生活を豊かにするようなローカルな仕事にリソースを使う、といったものになる。
当noteの「なぜエッセンシャルワーカーの給料が低いのか?社会に必要な仕事が市場に評価されない理由」という記事では、市場のルールにおいてエッセンシャルワーカーが評価されない問題について論じてきたが、ローカルが再構築されれば、エッセンシャルワークは、それ自体の有用性において評価されるようになる。
自分たちで行った仕事の成果を、自分たちで直接享受するようなローカルな状況であれば、エッセンシャルワークは、まさにそれがエッセンシャルであるという点において高く評価される。
そして、エッセンシャルワークが重視されるようなローカルが再構築されていけば、労働力を持っている者のほうが有利になっていくので、直接的に暴力的なことを試みるわけではないにしても、若年層による社会革命のような性質の活動になっていく。
エッセンシャルワークを行う労働力をローカルな集団が抱え込んでいけば、その政治的主張を、政府は無視しにくくなっていくだろう。
「べーシックインカムを実現する方法」というサイトには詳しく書いてあるが、ここでは、べーシックインカムを、国民の意識が変化して選挙(投票)によって実現するものではなく、ローカルを再構築した集団が、政府に対して譲歩を引き出すことで実現するものと考えている。
自分たちで自分たちに必要な仕事を行うことができて、いざとなれば本格的に徴税を拒否することもできるような集団に対して、政府が、ある種「日本円を使ってもらう」ためにそれを配るという形で実現するのが「べーシックインカム」、という構図だ。
長くなったので、今回は話をここで打ち切るが、この社会革命の方法や、それとべーシックインカムの関係については、このnoteでも、それについて説明する記事を出すつもりでいる。
先に内容を知りたい方はサイトのほうを読んでみて欲しい。(全文無料で読めます。)
まとめ
若者や氷河期世代が革命や労働運動を起こせなくなった理由は、自由化が進んだから。
自由化が進むと、「革命や運動を主導して成果を出せる人間は、そんなことをしなくとも自由競争の勝者になることで良い待遇を得られる」という形で、集団で団結して運動を起こすことが構造的に難しくなる。
過去に革命や労働運動が試みられたのは、それほど自由な社会ではなかったから。
自由な社会になると、「集団のため」よりも「自分のため」にリソースが使われるようになり、社会全体を変えていこうとする試みが成り立たなくなる。
「個人の自由の尊重」は、非常に重要なことだが、そうであるがゆえに疑うのが難しい。ここでは、「自分のため」が許されること(自由が尊重されること)を「正しさ」と置き、それに対して、「集団のため」を重視する作用を「豊かさ」とおいて、「正しさ」と「豊かさ」が相反すると考える。
「正しさ」と「豊かさ」は相反するが、個人の主観では両者が同一視されやすく、「自由競争によって社会が豊かになる(正しいから豊かになる)」という考え方が影響力を持っている。
政府は、「豊かさ(集団のため)」にリソースを使われやすくする政策を行うことができる。しかし今は、競争に評価されないものを評価する役割が期待される政府も、「自由競争によって社会が豊かになる」という考えのもと、競争を促進する政策を進めている。
「集団のため」ではなく「自分のため」にリソースを使う人が増える状況は、「分配するもとの余剰が減っていく一方で、分配の優先権を争う競争が激しくなっていく」というようなもので、各々が必死に努力するからこそ、マクロでは全員の生活が苦しくなり続ける。
しかし、だからといって「集団のため」にリソースを使おうとすると、それをやろうとした当人が社会的に不利になってしまうので、社会構造に問題意識を持っていたとしても、自分の生活を守るためには「自分のため」にリソースを使わざるをえない。
「自分のため」を重視せざるをえない構造を打ち破るための社会革命は、「ローカルの再構築」という形で行われる。
集団の規模を小さくする(ローカルを作る)と、「集団のため」と「自分のため」が近くなり、「集団のため」にリソースが使われやすくなる。
逆に、大きすぎる集団(グローバルな状態)だと、「集団のため」にリソースが使われない。「国家と個人だけ」のように「ローカル」が存在しない場合、「集団のため」にリソースが使われる動機がなくなり、社会も政治も機能しなくなる。
伝統的な社会においてローカルは強制されてきたものだったが、近代化と情報化が進んだ現在、個人として合理的に考え、そのメリットとデメリットを比較検討した上でも、「ローカルの再構築」が成立する余地があると考える。
「貨幣」は「ローカル」を超える「グローバル」な性質のものなので、「ローカルの再構築」は、貨幣を否定しながら、自分たちに必要な仕事(エッセンシャルワーク)を自分たちで行い、仕事の成果を自分たちで直接的に享受する、という形の活動になる。
再構築されたローカルな集団がエッセンシャルワークを担う労働力を抱え込んでいけば、そのような集団の意見を、政府も無視できなくなっていく。ゆえに、ローカルの再構築は、暴力的なことや過激なことを試みるわけではないにしても、若年層による社会革命のような性質の活動になる。
今回は以上になります。
youtubeに動画を上げているので、よければyoutubeチャンネルのほうも見ていってください。