第2回・小松~北陸の関ヶ原「小松戦国物語」とマイナー史跡を巡る
石川県小松市は、人口約10万人と金沢市に次いで2番目に人口が多い。
小松市の代表観光スポットは、「那谷寺」はある。
那谷寺は、1300年の歴史を持ち、717年(養老元)に泰澄が那谷寺を創建したと伝えられる。
それ以外には、大規模な史跡もなく、丹羽長重の小松城、御幸塚城(今江城)など少なく、温泉街が目立った格好になっている。
しかし、そんな小松ではあるが、ここに1600年の関ヶ原の戦いの時期に、北陸の関ヶ原と呼ばれた戦国史があったことは、あまり知られていない。
今回は、北陸の関ヶ原を紹介したい。
天下人「豊臣秀吉」がこの世を去った。
そして、「徳川家康」の最大の難敵であった大納言「前田利家」の死により、家康が本性を表す。
石田三成の西軍に付くか、家康の東軍に付くか悩む利家の嫡男「前田利長」。
結果、家康の東軍に旗幟を鮮明にし関ヶ原(実際には中央)に急ぐ利長。
しかし、その行く先に小松城主「丹羽長重」が立ちはだかる。
長重は、豪遊として名を馳せ、百万石の国力を持つ前田家にも一歩も引かない。
それどころか、何度も奇襲を掛けてくる始末である。
小松の入口「千代城」そして、木場潟を東に進撃する前田軍に、丹羽軍が奇襲を掛けた。
木場潟の戦いである。
打撃を受けながらも、丹羽軍を退けた一万を超える前田軍は、加賀方面へ進軍を続けた。
そこで前田軍に奇怪な行動が。
そのまま中央に進軍すると見られた前田軍が、加賀を過ぎたところで謎の撤退を始める。
利長になんの考えがあったかは、わからない。
利長率いる前田軍は、撤退時に木場潟西ルートを選択した。
ここで、汚名返上に燃える豪勇「丹羽長重」が再度、前田軍を攻撃。
大軍である前田軍であるが、道幅が狭く「浅井畷」という畷で激戦となった。
これが、北陸の関ヶ原と謳われる「浅井畷の戦い」である。
この戦いで、利長の弟「前田利政」、後の加賀八家となる「長連龍」が奮闘するも、前田軍は、多大な犠牲を出し金沢へ撤退。
浅井畷古戦場は、周りにすぐ人家もあり非常に稀な古戦場である。
そして、古戦場には、この戦いで戦死した長家の重臣たちが倒れた方向に同じく墓が倒れ並ぶ。
この戦いで、前田家、丹羽家の明暗が大きく分かれる。
改易となった丹羽家に対し、前田家は、外様大名最大の雄藩として繁栄するが、賤ケ岳の戦い、幕末維新、そして、今回の北陸の関ヶ原と優柔不断とも受け取られてしまう行動は、後に「前田気質」「金沢気質」と揶揄された。
そして、利長の弟「前田利政」は、この謎の撤退を不服とし京の嵯峨野に隠棲する。