写真を撮ることに必ずしも意味を見出す必要はないと思うし、それでいいという話
こんばんわ。
写真家・フォトグラファー・お芝居の活動ができていない岡本 晃です。
いきなりですが、昨日と同じこと言っていいですか?
ほんと寒いです。
相変わらず我が家は今夜も暖房をつけています。
きっと、いや断言できる。
こんな情報を必要とする人はよほどマニアックにぼくに興味を持ってくれている人か新婚夫婦の家計事情が気になっている人くらいだと思います。
そんなどうでもいいことをわざわざこうして書いている理由は、、、、特にない。当の本人であるぼくにとって今日はそういう日だったことを、ま〜残しておくかくらいの気持ちで今書いています。
そして、この感覚は毎日のライフワークとしてカメラで撮っている僕の感覚と近いものがあります。
撮るに目的はあってもいいし無くてもいい
今日の結論です。
目的によって、写真のある生活は楽しくもなるし、苦しくもなるし、何より撮る写真も変わってきます。
お仕事で撮る時は、クライアントがいて、撮らないといけないものがあるので明確な目的(ゴール)があって、そういう写真を撮る。
SNSで有名になりたい、人気になりたい、バズりたい人は流行を先取りしたり、乗っかったりした写真を撮る。
他にも、作品づくりとしてテーマを持って撮るだったり。
あとはどれでもなくて、趣味やライフワークとして自由に撮りたいものをって形もある。
この最後の場合は、特に撮ることに対して「大きな意味」はほとんど無い気がしている。
実際、僕が普段撮っているのはそういうものです。
「反射神経で心のままに」って感じ。
もし、このnoteを読んでいる方で自分が撮ることの意味ってなんだ、や周りを見てしまって自分のこんな写真なんか、とかでシャッターを押せなくなった人がいたとしたら、一度何も考えずただ歩いて撮るをする日をしてみて欲しいです。
昨日と今日の写真
写真はすべてricohのGRⅢ。
意味はあとから答え合わせのようにやってくる
この感覚は、先日開催した個展で気づいたことです。
撮影当時は、とにかくフィルムカメラを持って歩こう。
撮りたいと思ったものを自由に撮ろう。
これだけを思って撮影を続けていました。
その時は、写真展をするという目的もなかったから(写真展をしようと思ったのは歩き始めて後半の方でした)、ほんとただ撮り歩いているだけで。
だけど、いろんなモノを見て、撮って、どうてもいいこと考えてをしながら、写真展をやるってなった時に見返した写真たちは、僕にとって、自分が撮りたいものがこういうものだって気づかせるものでした。
自分が撮りたいものやどういうのが好きなのかを自分自身が知れた、という大きな意味をもった出来事だったんです。
どういう意味が返ってくるかは、人それぞれだけど、そういうことが起きるんじゃないかなって思います。
撮りたいと思えば撮ればいい
だから、撮れば良い。
シンプルにそれだけ。
シャッターを押すことに何の条件もないから。
ぼくはというと、ほとんどの毎日をGRⅢをポケットに入れて生活しています。撮りたいと思ってからシャッター切るまでが早いし、撮って出しで仕上がるし。
ライフワークの相棒みたいな感じです。