人を撮ること
先日、春の訪れを求めて台東区にある蔵前神社まで自転車で行ってきた。
日曜日ということもあってか、たくさんの人が来ていた。
家族連れやカップル、単身で来られている人など。
目立ったのは、多くの方がカメラを持っていたことだ。
写真好きだからかもしれないが、確かに多くの方がカメラを握りしめて咲いているミモザや桜、梅を自由に撮っていた。
中には、彼氏彼女で撮り合う人やおめかししたお子さんを撮影している人、モデルを連れてこられて、周りの視線を一斉に奪う人など少し離れて様子を見ていたりもした。
僕の勝手な偏見かもしれないが、この数年で自撮り文化がすっかり定着し、芸能人でなくてもSNSに自分をさらけ出すことが当たり前になったような気がする。
それは、「時に自己承認欲求を満たすため」という言葉で言い表されるようなこともあるけど、その一方で「自己表現することが大切になっている」ということでもあると思う。
僕は、よく人を撮らせていただいている。
撮り始めたきっかけは、当時の彼女(今は奥さんだけど)を初めて撮影した時に、彼女の魅力を伝えきる写真が撮れなくて歯痒かったのが始まりだ。
上の動画は、その時から1年くらい経ったころに広島のビデオグラファーさんのきっかけでインタビューしていただいた時のもの。
そこから、インスタグラムやツイッターをはじめて、今トップを走っている方たちを知り、どんな人か会いに行き、勉強会やイベントに参加したり、時には自分でオカフォトウォークというイベントを企画したりもしてきた。
その時から、人を撮れるようになるには圧倒的に人との出会いの数が少ないと感じていた。
もちろん撮りたいものを撮るための機材や、テクニックは必要。
意識が変わっていく
僕は、写真だけで生計を立てているわけでもないし、コンスタントに撮影の仕事をいただいている身ではない。
ただ、ここ数年少しづつお声がけをいただく機会もいただけている。
本当に嬉しい、まだまだだけど。
そういう仕事という部分でも、人を撮っていく中で意識が変わってきている。
撮り始めた当初は、「きれいに」「かっこよく」。今時の言葉だと「映える」ことを考えていた。
そんな中、これって僕が撮りたかった彼女のらしさを引き出せるものに近づけているんだろうかというジレンマがあった。
気付けば、SNSでバズることとか、フォロワーがだとかそういうことに考えが多くいっている時期もあって。
そんな時に出会ったのが、江田島で取り組んだ「江田島市民がPR大使」という企画だ。
これは、有志で参加された江田島市民の方々約70組を撮影させていただき、広島にあるイオンさんでパネル展を行い、広報活動を行なったもの。
この企画は、江田島市民のありのままの魅力を写真で届ける必要があって、しっかりカメラの先にいる人に集中して撮影を行なった。
この時、僕の中で人を撮ることの楽しさを改めて自分自身が知ったきっかけになった。
先日まで開催していたが、1年の時を経て写真展も開催しました。
僕に撮って人を撮ること
正直、かわいい人を撮ること、かっこいい人を撮ることは好きだ。
だけど、そんな日だけじゃなくって、もっと知りたいあの人のことを知るための手段が、僕にとってカメラという機械を通して向き合うことなんだと思う。
そして、それは純粋に楽しい。
僕がいつか死ぬ時に、
「とても楽しい人生だった」
と言えるかは、どれだけこの一生で、どれだけいろんな人に出会えるかだと僕は思っている。
僕の知っている世界や知見、感覚はまだまだまだちっぽけだ。
知ったかぶって凄そうに見栄をはるつもりはない。
これからも撮り続けて、人のキラキラとした部分に触れたいし、それを第3者に写真で届けたい。
最後になるけど、きっと最後まで撮りきれないのは奥さんだと思っている。なぜかという話はまた今度。