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撮ることはシンプルに

今日の記事は、写真をはじめたのになんかつまらなくなってきたとか、撮ることが辛くなった、撮ることに大義名分や崇高な理由をいつからか追い求めてしまってしんどくなった人に向けて書いてみます。

ぼくもそのようになっていた時期がありました。

それは恐らく、走り始めで何かどうしようもない野心だったり(今は静かにしたたかに燃やし続けているつもり)、周りに影響を受けたり、ライバルの出現だったり、嫉妬だったり、焚きつけられたり、snsのせいだったり、まぁ時間が流れていくその時々の出会いに少なからず、いや多分に影響を受けてきたと思う。

気づけば、こうなりたかった、これがしたかったが、「こうしないといけない」「こんなんじゃダメだ」「あの人がいうなら間違いない」とか本当は前に上に羽ばたきたい(ぼくの場合)のに気づかないうちに、狭い場所に閉じ込められてしまっていたような気がします。

そう、人は答えが欲しくなる生き物だ。

写真は撮っても何も答えはない。
ゲームクリアもないし(仕事は撮って納品したらクリアだけど)、合ってるも間違っているもないようなものだ。

だからsnsは写真と相性が良いような悪いような関係性なのかもしれません。

これまで答えが出なかったものが、いいねやリツイート、コメントをいただけることでそれが良いと錯覚する。
そうすると、反応がなかったものは悪いものだと錯覚し始めてしまう。

これがsnsによってもたらされた良いようで悪い関係性だと思う。

ちなみにぼくは基本的に誰がどう撮ろうが、その人が良いと思って撮った写真は良いと思っている。
そこに感動するかどうかは別だけど。
ただ、ぼくの写真にしてもそうだが万人に受けることなんてそもそも土台無理なのだ。

あなたが神のように崇めている写真家が世界中の誰もが知ってて、誰もが素晴らしいと言うのかというとそれはないと思う(あくまで例えで、それくらい写真の正解はないということ)。

話を戻すと、まぁそんな答えもないような写真をするという行為はもしかしたら、残酷な行いなのかもしれませんね。

そんなことを考えたりもするのだけど、ただやっぱり記憶を記録として残しておくことはしておきたい。

色々なところで言うのだけど、人は忘れていく生き物で、そこには逆らえない。
けど、脳内の隅っこに追いやられてるだけで失われてはいないわけで。

それが写真がきっかけとなって、隅っこから引っ張り出されてくる。

明日には忘れてしまうような
ふとした景色

そういう体験を最近、大学の頃の同級生とご飯を食べていた時に味わった。
あの時の合宿の写真を見て、あの場面、あいつ変な格好だったよな、みたいな。
ぶわっーってそこからその時代の記憶が溢れてきた。

その写真は、スマホで撮った適当なものだったけど、すごく大切な写真。

写真ってほんとシンプルにこういうことだよなぁって思った瞬間でした。

もし、今あなたが写真に苦しめられてるとしたら、一度そのカメラを置いて昔の思い出や超がつくくらいテキトーな過去の写真を見返してみてください。

きっとそれくらいでもいいんだって思える何かがあるはずです。




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Ko Okamoto
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