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非常勤講師問題 その3:非常勤講師という制度の根本的な問題

 多分、これで最後にします。
 これまでの記事は以下の通り。
非常勤講師が「労働者ではない」という判決について
非常勤講師問題続き。非常勤講師は大学教員任期法が想定する対象ではない。

非常勤講師裁判その3:中央学院大学事件

 非常勤講師については、これまでいくつか裁判が行われている。先の記事で見たのは最近の大阪大学と東海大学の件であるが、この二つは講師側に不利な判決であった。一方、その前に行われた専修大学の裁判では、講師側の主張を認める判決が出ている、ということも述べた。
 ただ、本質的な問題としては「なぜ非常勤講師の給料はこんなに低いのか」ということであり、その歴史的事情も先のエントリーで述べた。
 簡単にまとめると(1)元々、他の大学で常勤を持っている人を使うのが前提だった。(2)「教育歴」をつけるため、就職までの数年間やる仕事になってきた(「自然科学系はポスドクで経歴をつけ、人文・社会系は非常勤講師で経歴をつける」という仕組みが定着していた)。(3)大学院重点化と大学予算の削減が重なり、常勤職の需要が供給を大幅に上回り、非常勤講師を生業にする「専業非常勤」が当たり前になった、という三段階を踏んで現状が定着した、ということになる。
 実は、これについても裁判が行われている。2020年に地裁判決があり、また2021年に最高裁判決が確定している千葉県我孫子市の中央学院大学の事件では、非常勤講師が(1)給料が専任教員に比べて不当に低いこと、(2)専任教員として雇用する旨の約束がなされたが、果たされなかったこと、の二点を訴えて、敗訴している。

中央学院大学の非常勤講師裁判の経緯

 この事件は非常勤講師問題に一般化するには以下のような特殊事情が重なっている。
・ほぼ全学期、5コマ以上の授業を担当し、その中には必ずしも当該教員の専門分野でないものも含まれている。
・主要授業科目を3〜4コマ担当していた。
・専任教員は3年に1回以上は論文を発表することを義務付けられているが、それに適合するペースで論文を発表していた。
・一方、給料は同等の駒数を担当している教員に比べて極めて低かった(年間の給与は230万円程度であった)。
・また、ある教授が、専任にすることをエサに、自著の編集などの作業を手伝わせていた(この問題については別途和解が成立している模様)。
 これらの事情から専任雇用がなされることに講師が期待するのは当然だというのが原告の主張で、それに対して裁判所は、専任教員には大学の管理業務などがあり、給料が違ったり、家族手当、住居手当がつくことが非合理とは言えない、と判断している(先に述べたように教授の作業を手伝わせていたことについては別件で和解が成立しており、また教授の一存で就職が決まるわけではないというのは原告も承知しているはずだから、この件は解決済みというのが裁判所の判断)。
 これに対しても原告は、大学運営業務は多分に形骸化しているということを主張しているが、流石にそれは無理筋であったと思う。そういう部分も含めて、この件は若干攻め口を間違えているという印象はある。ただ、以下に述べるような事情を勘案し、訴え直したとしても裁判という制度によって問題が是正できるかは疑問が残る。

大学における非常勤講師の意味

 12世紀に現代の大学の原型になる(ボローニャ大学をはじめとする)大学ができたときから、大学というのはアソシエーションであり、「学問をするためのギルド組織」であった。こういったアソシエーションの内部事情は、裁判で是正するには馴染まない部分がある。
 この後もう少し詳しく分析するが、現在の非常勤講師料は、1時間あたり5100円というのが一つの標準になっている(後で説明する通り、これを単純に労働時間でかけたものが支払われるというわけではない)。5100円は最低賃金と比較すれば十分に高いわけで、問題は準備などは(本来、本務校でやっているのと同じような授業を行い、成績などは適当で良いという時代が想定されているため)無償という前提になっている。従って、労働者の当然の権利として、無償であれば応じなければいいのであり、勝手に労働しておいて「その分もよこせ」という議論は、なかなか裁判所では通りにくいだろう。
 本来、これはアカデミズムの共同体内部で解消すべき問題であり、最終的には法制化などを伴うとしても、まずは裁判の判決ではなく、もう少し大学内部での運動があるべきだったと思う。もちろん、すでに述べたように中央学院大学訴訟は特殊事情が含まれているので、訴訟に発展したこと自体は致し方ないと思われる。参照できる議論の軸がこれくらいしかないことの問題である。なぜこういう状況になっているかというと、一つはアカデミシャンであるよりは経済主体であることを求められるような昨今の大学の置かれた社会状況と、それに過剰適応した大学教員の問題ということは考える必要があるのではないか。

 裁判の話に戻せば、中央学院大学訴訟の判決文では、私立大学等経常費補助の金額に着目して、非常勤と専任の格差は社会的にも当然視されている、と述べている。同補助金要領によれば、専任の年間標準給与費は5,731,000円である。これに退職積み立て金の標準経費420,000円がつくと、合計6,151,000円になる。一方、非常勤は時間あたり5100円である。おそらく、多くの大学で1コマ2時間(ただし、実際の授業は90分)の計算であり、これを1学期に15回なので30時間分で153,000円。これを実際の授業がどう行われたかに関わらず、六ヶ月にわたって支給する形にしているところが多い(従って、前期後期で同じ大学で1コマ授業を担当すると、月給は25,500円、年俸が306,000円になる)。
 ちなみに、私の知る範囲ではなぜか専門学校は時給を実時間で支払うところが多い。例えば、6月は4回講義が行われることが多くなるが、時給が一緒だとすれば40,800円が月給になり、一方で3月や8月は大抵無給になる。これは、先に述べた「非常勤講師も雇用されていなければならない」という建前から大学は避けているのだと思われるが、専門学校だと問題なくなる理屈はよくわからない。いずれにしても、支給金額が大きく変わるわけではない。

この問題を自助努力で解消できるか?

 先の「専任雇用の6,151,000円」に、裁判所のロジックに従って「専任と違って規制はないのだから、好きに仕事を受けて、収入を追いつかせる」ということをやろうとすると、前期後期とも週20コマ40時間を担当する必要があるということになる。移動時間や、授業の時間は原理的に昼間にの比較的限られた時間に設定されること、また授業そのものより採点の手間などを考える必要があることなどを考えると、ちょっと現実的ではない。(かつての東京であれば、大型私大が山手線の円内に集中しており、交通網も充実していることから1日に複数コマを入れることも可能だったのかも知れないが、郊外にメイン・キャンパスを移転する大学が増えた昨今、大学間の移動に時間がかかり、また移動時間の見積もりも困難になっている。地方では、そもそも最初から大学が少なく、また大学間の距離も長い)。私立大学等経常費補助金の設定そのものが、「専業」非常勤を業として行う場合に専任教員との同一労働同一賃金になることを想定したものでないことは明らかであろう。ちなみに、大学によっては「本業」を確認される。書類を空欄で出したところ、困ると言われたので非営利法人の理事職(ただし、無給)がある件を伝えたら、それを書類に書いて欲しいと言われた。元々の「本務校があることを想定」という経緯を反映して作成された書類形式で、無給であることは問わない、というのはそれが形骸化したものではないかと思う(あるいは、何か問題があった時に「確認はしていた。無給であったことは知らなかった」というつもりであるのかも知れない)。

非常勤講師が「雇用」であることの(経済的)問題

 時々、非常勤講師代は(もし文科省の通知で雇用が求められなければ)請負の方が書籍代や学会費を経費扱いにできていいのではないか、という議論がネット上で上がることがある。もちろん、大学院重点化以降の圧倒的な供給過剰という事情などを勘案すれば、どうしても買い手市場にならざるを得ず、何かをすれば対価が上がるというものではないと思うが、仮に一般的な請負仕事のように、さまざまな経費を計上して請求するようになったらどうなるかということは、少なくとも現実との差を認識するという意味で有効かも知れない。
 先に触れた判決文にあるように、確かに非常勤講師は学内業務を負担しない。しかし、大学教員の業務は大学運営、授業、そして研究の三つからなる。そして、研究をしていることは大学で教育を行うことと一体不可分なものであるというのが大学の大前提である(これはベルリン大学で確立した理念であり、一般に「フンボルト理念」と呼ばれる。一般にと書いたには、実際はフンボルトによるものではないという指摘もあるからである)。実際は、大学の大衆化によって、大学教授が最先端の研究を行っているかどうかに関心のない学生が増えており、必ずしも授業に最先端の知識が反映されていない場合も少なくはないとしても、非常勤も含めて大学教員を採用する際には、その人物の研究実績は重視される。
 先の投稿で非常勤講師は大学の教員等の任期に関する法律(以下、任期法)の対象ではないと述べた。同法は、若手の研究者が数年の任期のポスドクに複数回採用されることで成長し、最後に常勤職につながる、ということを前提としている。ここには、ポスドクが、かつての「助手」というやり方と違って「教育や大学運営の負担なしに研究に集中できる環境」を整備するために導入されたという前提がある(現実には大きな研究プロジェクトの管理や学部生などの指導に忙殺されるポスドクも少なくないとしても、理念上は研究以外の義務のない職、ということであった)。一方、非常勤講師は、科研費申請の際に資金を受ける大学になってくれる、といった支援は提供する大学はないわけではないが、研究の部分の人件費が出るわけではない。
 もしフリーランスであれば、仕事を受託する際に自分の実動時間の時給だけ請求する人はいないであろう。そこには、当然のことながら事務所を維持したり事務的な作業をする経費が含まれる。また、自分がその業務を受けるために必要な知識や技術を獲得するための経費、あるいは今後それを維持していく必要があればその経費も含む必要があるだろう(一般には「技術費」などと呼ばれるだろう)。また、これは常に請求に含められるわけではないだろうが、仕事が継続的に受けられない場合や、その仕事を受けることによって他の仕事ができなくなる(例えば遠隔地の仕事であるため前後の移動日程が必要になる)場合は、その部分も含む必要があるだろう(これをなんと呼ぶのか知らないが、要するにリスク・プレミアムということである)。これらは、専任であれば給料の額面には必ずしも反映されていなくても、実際は支払われているとみなすべき経費である。最後に、社会保障なども経費として考える必要がある。非常勤講師であれば国民年金に入ることになるが、元来、国民年金は自営業や農家など、自分たちで自宅に加え店舗や農地などの生産材を持っており(あるいはキャリアの過程で形成しており)、それを子孫につなげることができるような業態を想定した制度であり、新しい(プレカリアート的)労働形態に適合したものではない。そのため、老後の資金は投資などで確保するように自己責任とするか、新しい年金制度を付け加えるかは議論の余地があるが、それを可能にするような対価が支払われない現状は問題である(これも実際はリスク・プレミアム問題でもある)。これらをまとめると、以下の図のようになるだろう。

結論、あるいは今後の展望…のなさ

 中央学院大学判決は、授業負担の時給から見た妥当性という議論に終始してしまい、原告も非常勤講師の時給が決まった後に社会的役割が変わったことによる矛盾、あるいは大学という理念との乖離について、むしろそこを軽視するような訴え方をしてしまったという問題はあるように思う。判決文もそうした流れを反映した問題を抱えている。
 この問題は、もう一度改めて社会的に議論される必要があるように思う。一つの提案としては、非常勤講師を全面的に禁止し、地域の大学が資金を出した「講師派遣センター」的なもので一括雇用した上で各大学に派遣するということである。これによって、まず小規模大学では細分化された授業に対応できないという問題は解消できる。遠隔地の場合や学生が極端に少ない場合は、リモートを使ったりサテライト授業で一つの教室に複数の大学を集めるといった工夫は可能だろう。
 一方、『大学はもう死んでいる』という書籍の中で、東大の吉見俊哉氏は、過剰に細分化しすぎたアラカルト授業形式を改めることが日本の大学にとって必要だと述べた上で、そうすると非常勤講師を多用して授業数を増やすという対応は不可能になるという展望を述べている(Kindle版 位置ナンバー891)。そういった形で問題の解消を図るというのも一つの手かも知れない(非常勤講師の専任化につながるのか、人員整理になるのか、といったところは微妙なところかも知れないが…)。
 ただ、吉見は「この構造転換は、ある程度まで広がれば、もう一気に広がると思います」と楽観的に述べているが、果たしてこういった改革を行う力が日本の大学に残っているのかは、極めて怪しいところであるようにも思われる。

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