週刊文春記事「“おひとりさまの教祖”上野千鶴子(74)が入籍していた」について雑感

 文春の報道全文を読んだわけではないので、細かい点は知らんのですが…。上野千鶴子氏の「結婚」報道を受けて「上野に唆されて非婚を選んだ人かわいそう」みたいな反応が見られる。でも、別に上野はアイドルやロックスターなわけではないので「上野さんおひとり様するんだって。きゃー、私もおひとり様する〜」みたいに消費されることが望ましいわけではなくて、非婚を選ぶことの意味とかメリットデメリットとか、彼女の本だけでなくいろんな情報を参考にしつつ熟慮して選ぶべきだし、敢えて「法律上の結婚を選ばない」みたいな人だったら、そうしているのが大半だと思うんだよね。
 例えば、ハイデッガーがナチを選んだからといって「彼の哲学は全部クズだったんだ」ってことにはならんでしょ。ハイデッガーが構築した理論をもとに自分がどう生きるべきと考え、それが実践できたかと言うことが重要わけです。念の為述べておくと、結婚することがナチの所業だと言っているわけではないです。ある哲学を自分のものとして採用したとしても、原理原則を遵守できない「事情」と言うのはいくらでも出てくるわけで、それが起こったからといってその哲学まで逆流してダメということにはならないという例として挙げています(「意外と困難だから見直しは必要」という議論ぐらいはあってもいいかも知れない)。

 ちょっと思い出したのは、(上野氏ではない)フェミニズムの大御所が「学生時代に一緒に家父長制と闘っていこうと約束した友人たちも、社会的な事情で結婚して専業主婦を選ぶことを余儀なくされるということはあって、そういう人には”一人一殺よ”と言って送り出した」というような話をしていたこと(追記:つまり、配偶者一人の考え方でも変えていければ、それでも十分な成果だ、というようなことを言っているわけですね)。
 ちょっと現代だと危なっかしい比喩なので、誰が言ったかは書きませんが、まぁ、そういう時代もあったということです。
 何が言いたいかというと、別に上野氏も「結婚した女はフェミニストとしてダメ」と主張していたわけではなくて、与えられた状況の中でするべき運動があるだろうということですね。
 (これも念の為に言っておくと、郵便貯金でもしたらプロレタリアート失格だとか、心の中だけでも男を愛したらフェミニスト失格だ、みたいなことを言う人もいるだろうし、だからこそ哲学的議論というのは面白いわけですが、上野千鶴子の議論はそういうものではなかったろう、ということです)

 哲学と倫理という意味では「絶対守らなければいけないこと」と「与えられた条件の中でベストを尽くせばいいこと」に分かれるわけで、もちろん、その境界線の引き方にも議論があるだろうし、その辺の議論をきちんとすることは Integrity という意味では重要かと思う。
 ただ、兎角プライベートに関わる問題でもあり、お相手(の家族等)もあることであるから、今すぐにというよりは遺稿みたいな形で出版されるようにしておいてくれたらそれでいいんじゃないかな、と思ったりします。

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