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ゼレンスキーは「簡易軍服」を着ているか?

 まずは、Military という修飾語が服を示す単語(Uniform, Fatigue, Attire 等々)につく時、それはどういう意味の領域で使われているか、ということが問題になる。
 一般的には、この回答は二種類ありうる。つまり(1)法的な機能が問題になっているのか、(2)装いやデザイン面が言及されているか、ということである。

 軍服(Military Uniform)であることには、国際法上極めて重要な意味がある。
 「撃っていいのは、撃たれる覚悟のあるやつだけだ」という某アニメの名台詞があるが、これは実は戦時国際法の根幹になる原理である。
 つまり、軍人として戦争に参加し、銃器で誰かを制圧したり殺したりするためには、明示的に軍人であるとわかる服を来ている必要がある。
 民間人の服装で武器を携帯して奇襲をかけることは国際法違反だし、軍服を着ていない人を軍人が攻撃することは戦争犯罪として扱われる。
 この意味で「誰が軍服を着ているか」あるいは「誰か特定の個人が来ているのは軍服か」というのは、法的に重大な問題である。
 (本稿では触れないが、後で論じるようにこの問題は、対テロ戦争以降非常に複雑な問題になっている)※ここまで書いた時点ではもっと短くまとめるつもりだったという錯誤の記録ですw

 そして、第二の原則として「真っ当な民主国家は文民統制を原則としている」というものがある。
 民主国家において、憲法に従った正統な選挙で選出された元首(ないし憲法が定めた国軍の最高司令官)は、通常制服を着ることを回避する。
 ジョージ・ワシントンは米国において、前線で指揮を取る将軍と大統領を同時に兼ねた最初で最後の大統領だが、その彼にしても執務室で制服を着ることはなく、大統領として発言しているか、将軍として発言しているかは慎重に区別していた。
 (こうした誠実な性格は、独立期の元勲たちがワシントンを選んだ重要な理由であろう。というのも、当時の常識としては任期切れを迎えたワシントンが権力移譲を拒否し、軍の支持を得て皇帝即位を宣言しても全く不思議はなかったので、「彼ならそうしそうもない」というのは重要な資質であった)
 こうした伝統を歴代の米国大統領は大切した。別項で述べたとおり、

”1918年に『ブルーノのボヘミア』誌が、Bernhardt Wall 氏の「軍服を着たウィルソン大統領」を描いたエッチングを表紙に使用と計画。ウォール氏が同じエッチングを大統領に送ったところ、大統領が軍服を着ているのは「文民統制に反する」という返事をもらったため、『ブルーノのボヘミア』誌もこのエッチング作品を表紙にすることを差し控え、代わりに大統領からの手紙を表紙にした”

 そして、この慣行はジョージ・ブッシュ(Jr.)によって破られ、その後の大統領も軍服を使ったパフォーマンスを解禁している。
 もちろん、ジョージ・ワシントンではなく、ジョージ・ブッシュが「皇帝即位」を宣言するといった予測は荒唐無稽である、という判断があったのだろう。
 しかし、2021年1月6日の首都ワシントンにおけるトランプ派の暴動を見た時に、果たして、「大統領の皇帝(と名乗るわけではないにせよ)即位などあり得ない」と自信を持って言えるだろうか?

 一方、憲法ではなく軍事力に基盤を持つ指導者が、軍服を着て人々の前に現れるのは多くの軍事独裁国家で珍しいことではない。
 モブツやピノチェト、北朝鮮の金王朝の面々など、軍に権力の根拠を置き、軍人のトップとしての自己表象を好んだ独裁者はいくらでもあげることができる。
 多少とも正当化できる事例としては、ヤセル・アラファトPLO(パレスチナ解放機構)議長が常に軍服姿であったことを思い出すだろう。
 長く国家として認められてこなかったパレスチナを代表する組織として、PLOは憲章を持っており、執行部に対して上位機関としてPNC(パレスチナ民族評議会)も存在していたが、正統な選挙を行うことが困難であるといった事情もあり、事実上アラファトの権威を追認するための機関であった。
 アラファトを議長位に留めていたのは、PNCの決議ではなく、アラファトが率いる軍事組織としてのPLOの軍事力そのものであったわけである。
 こうした状況は、第二次対戦中のフランスでも見られた。つまり、シャルル・ド・ゴールもロンドンに設置された亡命政権のトップではあったが、それよりは連合国側の援助を受けてドイツ軍と戦う実働部隊である「自由フランス軍」のトップであることが権威の泉源であり、それを表象するために軍服姿が望まれた。
 同様の状態が持続していたのはキューバであろう。フィデルとラウルのカストロ兄弟がキューバのトップに君臨していたが、彼らの権力の根源は「最初に(米国の支援を受けた軍事独裁者であった)バティスタ政権に抵抗を開始したグループの一人」であり、その後も帝国主義国家としての米国に対する闘争が継続中の革命国家のリーダーであるというアイディンティティを保ち続けたからである。
 ラウル・カストロの後継者として国家評議会議長を継承し、制度変更で大統領になったディアス=カネルは基本的にスーツ姿で現れるが、これは革命国家からの脱却を徐々に進めるという意思表示と読み取ることができよう。

 さて、「ゼレンスキー大統領が軍服姿で現れた」という命題を肯定する場合は、「そういった特殊な国家に民主国家としての西側先進国が軍事援助を与えることは妥当か?」という政治問題を惹起する。
 もちろん、米国はこれまでも南米、アジア・アフリカの独裁者に軍事援助を与えてきたし、ウクライナが軍事独裁国家であったとしても旧東側諸国との関係のあり方の上で援助を決める可能性は高い。
 しかし、西側指導者は世論の動向を無視できないのであり、ウクライナの指導者が軍服とレイバンのサングラスを好み、胸にジャラジャラと根拠不明の勲章をぶら下げて闊歩するタイプの指導者であれば、武器供与のハードルが上がることは疑いがない。

 従って、こういった意味での(つまり戦時国際法上の)「軍服」を、ゼレンスキーは着ていないし、今後も(西側の援助を期待できるうちは)着ることはないだろう。

 一方、国際法は厳密な軍服の定義を定めておらず、近年は柔軟に解釈される傾向にある。
 一般にアフガニスタンのタリバン兵は近代国家が規定するような明示的な「軍服」を着ていない。
 このことは米国がアフガニスタン戦争において捉えたタリバン兵を正規の戦争捕虜として扱わないと宣言する際の根拠になっている。
 一方、国際的な人道機関は、米国の姿勢は間違いであると論じるであろう(「ゲリラ戦」の起源である半島戦争の時代から、自国領土への侵略を受けて立ち上がった民衆からなるゲリラ兵が十分規格化された軍服を用意できることのほうが少ないし、タリバンにはこれと別の原理を適応すべきだという米国の主張は人権という観点から問題があるだろう)。
 かつてのヨーロッパの戦争では、野戦においても堅苦しいカラーのついた軍服が着用されていたわけだが、現在ではより柔軟な動きに対応した、通常は迷彩柄やカーキ色などが採用された戦闘服が使われている。
 もちろん「戦闘服は軍服ではなく、従って戦闘服で捉えられた兵士には正規の戦争捕虜としての扱いを保証する必要はない」などという主張はあり得ない。

 さて、この迷彩柄などは現在は、戦争とは全く関係のない「ファッション」として使われている。
 これらの「ファッションとしての迷彩服」も、正規国軍の着用する戦闘服も口語的には Military Fatigue と呼ばれている。
 日本語だと、「ミリタリー・ルック」とか「ミリタリー・ファッション」と表現される。
 これは、日本語だとカタカナにすることによって、堅苦しさが減少することに由来するだろうが、欧米語ではこれらを表記上区別するのは難しい。

 多くの国では、正規軍の軍服を正当な地位にない人が着用することは禁じられている。
 一方で、少なくとも大半の先進国では迷彩柄などは禁止されていない(フィリピンなどでは迷彩柄の服も正規の軍服同様禁止されているので注意が必要である)。
 ただ、これは議論がないということではなく、多くの国で一定数、民間人によるミリタリー・ルックの利用に嫌悪感を感じる人は(右派であれば軍への敬意のなさを嘆き、左派であれば日常の軍国化を嘆くという形で)存在する。
 この問題は、2021年のワシントン暴動の参加者にミリタリー・ルックのものが多くいたことから、近年の米国のファッション業界でも再び議論が活発化しているようである。

 しかし、いずれにせよ(2)装いやデザインの領域の問題、という二つ目のカテゴリーがあり、ここで Military という修飾語を服飾に対して使うことは、国際法上の「軍服」を含意したものではない、ということである。
 この第二の領域で使う分には、ゼレンスキーの衣装は間違いなく Military Fatigue である。
 しかし、この両者は簡単に分けられるものではない。
 なぜトランプ支持者たちがミリタリー・ルックを好んだかという背景には、モブツやピノチェトがしばしば軍服を着て大衆の前に立ったのと、同じ理由があるだろう。
 つまり、それは「民主的でめんどくさい手続きではなく、直接的な力によって根拠づけられた権威」に自分たちの正当性を依拠させようという試みを支持するか否か、という点と密接な関係があるのである。
 この意味では、 Military という修飾語は法とファッションという二つの領域(ヴィトゲンシュタインの言葉を借りれば「言語ゲーム」)にまたがって存在しており、またその両者は相互に織り込まれている。
 民主国家であっても、後者のような国家のあり方を好む民衆がいることは、残念ながら事実である。

 また、ブッシュが公然と軍服を来て見せた初の大統領であることは、彼が始めた「対テロ戦争」の存在と無関係ではない。
 対テロ戦争では、戦時国際法が規定するような「正規の戦争」と違う、例外事項の連続であり、それを米国に都合のいいように解釈し直すことが常態的に行われる必要があった。
 例えば、非番で軍服を着ていない米兵をアルカイダが襲えばテロである。これは伝統的な国際法の解釈に合致する。
 一方、米国は公然とアルカイダやタリバンを、指導者も含めて、戦闘中以外に攻撃や暗殺の対象にし始めた。これも、伝統的な国際法に従えばテロであるが、「対テロ戦争」という文脈では正当化されると米国政府は論じた。
 この立場は、政権が民主党に変わっても、オバマ政権によってほぼ踏襲された。
 アルカイダの指導者、オサマ・ビン=ラディンが米国の特殊部隊によって暗殺されたのはオバマ政権の時であり、政権はその行為を隠そうともしなかった(もちろん、それによって支持率が上がることを予測し、期待していたわけである)。
 一方、米国政府はアルカイダによる米国内外の米軍基地への攻撃もテロと呼び始める。
 何をテロと呼び、何を正当な戦争行為と呼ぶかは、法の下の平等の問題ではなく「どのような主体がそれを行使するか」という問題になりつつあるのである。
 こうした、政府が属人的判断を下すことへの指示を政府が期待するという状態と、米国大統領が軍服を着て指示を求めるという行為の間には、密接な関係があるだろう。

 おそらく、ゼレンスキー本人に尋ねれば第三のカテゴリーに属する問題が浮かび上がる。
 つまり、エアコンの効いた部屋で勝手な目標をぶち上げ、実現のために汗をかくわけではないにもかかわらず民衆の喝采を浴びる立場である文民政治家と、戦争であれ犯罪であれ災害であれ現場で身体へのリスクを引き受け、激しい肉体労働をこなす立場である「制服組」との心情的な距離の問題である。
 それを埋めるために、つまり現場との連帯を示し、また非常時であり、それに最優先で当たっているというメッセージを国民に伝えるため、スーツではなく現場の服装に近い服が選択される。
 日本でも、災害対応の政治家が作業服を着るのと同じことである。
 問題は災害ではなく戦争であるため、軍服っぽいことが好ましい。
 一方で、(1)の拘束があるために、軍服を着ることは好ましくはない。

 したがって、ゼレンスキーが意図しているのは「現場や国民に親しみを持ってもらい、また国際社会にも最優先に取り組んでもらうことを示す」ことであり、これに(2)のカテゴリー(あるいは言語ゲーム)において Military である必要がある。
 Military Fatigue である、ということはここに合致しているということである。

 一方で、国際社会に「ウクライナは民主的に選ばれた正当な政府によって統治され、その指導者は文民統制を尊重している」ことを見せるためには(1)のカテゴリーにおいて Military であってはならない。
 これを図示すると(a)のようになる。

 一方、日本語で「簡易軍服」といった場合、通常想起されるのは、「何らかの理由で正規の軍服より正当性に劣るが、その他のメリットによって正規軍によって着用される制服」というような意味であろう。
 つまり、(b)である。

 (a)の星印のところに位置する何かを「簡易軍服」と呼ぶことが絶対にないとは言えないかもしれないが、おそらくかなり特殊な事例を探す必要がある。
 少なくとも一般的に使われる用法ではない。
 翻訳としてより適切なのは「軍隊風作業着」といったようなものであろう。

 そう考えてみれば「ゼレンスキーは(簡易)軍服を着ている」という命題にはどのような前提があるか、そういった命題を好むのはどのような政治的選好を持った人々であるか、ということもわかるであろう。
 ゼレンスキーが欧米のそういった市民の支持も期待しているかまではわからない。
 戦争に好意的だと判断しているかもしれないし、そういう層はプーチン的なものに惹かれるだろうと警戒しているかもしれない(なにしろ彼のチームはメディア戦略のプロから構成されている)。

 そういったことも想定して、翻訳は慎重に行われるべきであろう。

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