スカン☆ピンコ
お昼休みに日記のような何かを書き綴ってみます
「#ショートショートnote杯」で、初めて小説のような何かを書きました。
初投稿作品です。「世界的クリエーターを目指したら、障害者になってしまった私の履歴書 」を略しました。
※ゆるく人探ししてます、というお話です。 サイトウ先生との出会い27年前、大学生だった私は自動車教習所に通った。 そこで出会った教官「サイトウ先生」は、年齢は自分とあまり変わらなそうで、身長はそれほど高くなく、髪を二つに分け、よくピンクのシャツに黄色のネクタイを合わせていた。私の中での第一印象は「好きな顔立ちだな」という好ましいものだった。 「サイトウ先生」は場内教習を担当していて、私は何度かお世話になった。 話がとても上手だったので、いずれも楽しい時間だった。 サイトウ
久々にnote開いたら、諸々の仕様が変わっていてあたふたした。すかさず「旧エディタに戻す」を実行した私。 昨年から転職活動をボチボチやっていて、先月内定が出た。 現在は現職の退職手続きと転職先の入社手続きに忙しいのだが、プライベートもまるっきり新しい人生にしたくて断捨離なぞも頑張っている。 私は気を引き締めていないと、部屋が散らかりやすいので、なるべく物を持たない方が快適に暮らせるはずなのだが、残念なことに余計な物が年々増えていくので、思い切りが必要だと感じている(などと
昨年は、人生の節目だったと思う。 私は十数年前に重い鬱状態になって以来、度々心身の不調を繰り返して通院を続けて、うつ病だと思って生きてきたが、昨年、これが双極性障II型との診断が下された。 近年の私にとって、最大の「生きづらさ」は眠れないことにあったが、昨年ぼちぼち睡眠の質が安定した状態になったので、二番目の「生きづらさ」について医師に相談した。 それは「不定期に、衝動的に買い物するなど散財して困ることが10年くらい前から続いている。」ということ。それが双極性障害の躁転
何を書こうが、休もうが、誰かに影響を与えるほどの書き手でもないのですが、備忘録として書いておきます。 前提2020年4月から在宅勤務となり、空いた時間で何かを始めようと考えた。 とはいえ、社会人歴約20年の間、自分に立ち返る余裕がなく、やってみたいことがすぐに見つかる状態ではなかった。そこでまずは、自分探しに力を入れてみることにした。 なるべくお金がかからないこと幸にしてコロナ渦の影響で収入減に陥ることはなかったが、ニュースで生活が厳しくなった人々について断片的に知ると、
私の場合、今のところそうではない。 コロナ自粛で先行きが見えないので、心のどこかでお金のかからない暇つぶしを模索しながら書いていたんだ。 もともと文章を書くのは、嫌いじゃなかったから。 仕舞い込んだ古いパソコンを出してきて、noteの投稿を始めた。 でも、何かが違う。 n-bunaの「始発とカフカ」のフレーズをふと思った。 「あぁたぶんたぶん夢を叶えるにもお金がいる 気づいてたけど」 私は特段でかい夢を抱いてはいないが、「暇つぶしで自分の心を満たしたい」という一見些
8月からnoteを書き始めて、「私は一体何を書きたいんだろう?」と漠然と思っていました。自身に蓄積された体験や、日常を切り取ったエピソード、など試行錯誤していました。 先日、わだつみ@さんの"読書感想文"で「書いた文章は基本的に誰にも読まれない。だからこそ自分が面白いと思えれば幸せ」という記述を目にしました。 いったん話がそれますが、一時期、イラスト創作をされている人たちのnoteを眺めていた折、「発信」が前提で「バズり」を目指して描いている人がいることに驚きました。
初めてのバイトで、私は人を学んだ。 今年、母が働くスーパーでは、様々な決済ができる新型のセルフレジを増やした。その結果、使い方を聞く客が増え、本来の業務に支障を来していると母は嘆いていた。 何を思ったか、母は私を「レジ説明係」として店長に推し、バイトが決まった。 初めての接客は四苦八苦した。 幅広い客が尋ねてくる。1回の説明で使いこなせる人もいれば、私が代行せざるを得ない人もいる。態度は横柄な人も低姿勢の人もいる。身なりが良い人も悪い人もいる。 人はそれぞれ全く違う!
ショートショートnote杯の参加にあたり、自己紹介を書くことにしました。 名もなき私は、便宜上「スカン☆ピンコ」と名乗っています。 お金がないという意味合いの「素寒貧」に「泉ピン子さん」へのリスペクトを込めた名前です。 読書傾向と作風(?)について学生時代は、小説より新書をよく読む傾向にありましたが、社会人になってから本を読む余裕はなくなりました。ただ仕事柄、企業の事業や製品の資料だったり、国の御達しだったりを目にする機会に恵まれてきました。 長年、情緒の少ない文体に触れ
片田舎での商談が終わり、駅に向かうタクシーで、僕は空腹の音を響かせていた。 下車の折、食事処のありかを運転手に尋ねた。 「そのシャッター通りに、食堂があるよ。」 運転手に礼を言い散策を始めると、通りに不似合いな真新しい店構えが現れた。 店に入ると、学生風の男が野菜を刻みながら「お好きな席にどうぞ」と言った。他に客はいない。 カウンターに座り、ピラフと野菜炒めを注文した。 旧型のテレビが映す番宣を眺めていたら、男は「そのテレビ、実は拾い物です。この辺は都会の不法投棄がよ
A社長と共に興したテック企業で、新サービスの公開作業を進めていた 深夜、「資金が尽きたのでサービス公開は中止だ。会社は解散で人事代行に離職票を送らせた。」とLINEが来た。 翌日、離職票と「ラトスリ(株)人事代行 佐伯某」の名刺、「弊社のDXに協力願いたい」と書かれた一筆箋が、速達で届いた。 佐伯の取り次ぎで、ラストリ役員を訪ねた。 「当社は企業の不用品の整理や回収が主業で、変革に迫られている。DX人材の貴方を高待遇で迎えたい。」 帰り道、テック系プレスの通知でA社の
私の父は家の一角で、革職人として財布等の小物店を構えている。 いっぽう私は、こんな風に認められても、発話がロクに出来なくて不登校になった14歳だ。 私の登校を両親が諦めてから、家の古ぼけたピアノで四六時中遊んでいる。 ヨルシカの曲を真似るうちに、自然に旋律が浮かび手が動くようになった。 いつしかピアノは、私の心に共鳴し、気持ちを代弁する存在になった。 父の店は、ある日を境に客が殺到するようになり、東京のメディアが取材に来たりもした。有名人が父の革財布が愛用品とSNSで公
母校の中学には、20分の朝自習の時間があった。 曜日に教科が割り振られ、配られるプリントをこなす。 例えば、国語なら漢字、理科なら元素記号など。 1年生の数学は例外で、月1回数学ギョウザという日があった。 廊下に出て、歩く・止まる・横になる・座るを繰り返しつつ、2桁の計算を解く。 私は数学ギョウザが縁で計算にハマり、時を経て公認会計士になった。 昨夕帰省し、中学の同窓会に顔を出した。 母校の教員となったアヤが、餃子を摘んで「数学ギョウザは健在だよ」と口にした。 ダ
勤続35年、53歳で私は早期退職した。 子供たちも巣立ち、ふっと力が抜けた時に妻の後押しがあり、趣味の油絵を極めるため藝大を目指すことにした。 美術系大学進学塾の面接に向かいながら、先を思う。 塾で若者と切磋琢磨し、藝大に入学できたら、 とびきり大きな絵で公募展に参加しよう。 雅号は、本名をカタカナで書く「カナジ・ジュリ」。 我ながら好きな響きだが、漢字表記だとイマイチだと思う。 まず姓。私と同音同字の人は稀だ。 そして名。当時の人気歌手・沢田研二の愛称に因んだ「樹
執念を感じた こんな話を書ける人に私はなりたい https://blog.hatenablog.com/entry/2021/07/02/170000
木曜に生協に届けてもらった冷凍のお惣菜の一つを、常温で放置してしまっていたことに今さっき気づいた。。とりあえず冷やして、晩ご飯に食べても大丈夫かな?ちなみに胃は弱いほうだ。
私は先月46歳になった。40過ぎて身体が明らかに変わって、もろもろ大変な思いをしているので、今回はその辺の話をしたい。 もし20代や30代の頃の私に、今の身体の話をしても、間違いなく理解してもらえない。そのぐらい変わった。若い衆は覚悟しておけ。 1. 髪の毛30代半ばの頃、同年代の同僚男性が坊主頭で出勤してきて驚いたことがある。「いきなり髪が薄くなった気がしたので、思い切って坊主にした」とのことだったが、当時の私はヒトゴトとして笑った。 彼の体験に似たものだろうか。私は