固有名と匿名の往復
人は家庭や職場、地域にいるときに、どこどこの何々さんといった固有名を与えられる。ただ、時々その固有名を背負うことが苦しくなることがある。辛いとき、しんどいとき、その固有名を捨て何者でもない自分になり今いる共同体からフェードアウトしたくなる。
私は二つの手段を使ってそれをする。
一つは、公園やショッピングモールなど、広いところへ行くことだ。そこにはたくさんの人がいる。所属する共同体に関係なく広大な敷地の中に無造作に集まった人々は、自身らの充足だけを考えて行動する。そこでは何も背負わずに過ごすことができる。そうやって、自身を特定の存在から匿名の存在へと変容し、何者でもない私として過ごすことができる。また、なぜ公園やショッピングモールを選ぶかといえば、そこには多くの幸せが集まっているからだ。大切な人と互いに思いやり、互いのための時間を過ごす。そこには、幸せな時間を生み出すためのコンテンツがたくさんある。そこで起こる美しい本然的な人の営みを垣間見て、私は他者の幸せに共感し自身も幸福になる。パチンコ屋ゲーセンを私が選ばないのはこれが大きい。自身の充足だけを目的にする人が集まる場所は極めて利己的な雰囲気の漂う空間で、固有名を放棄したいときの心境には合わない。
もう一つは、物語の世界に没入するということだ。漫画やドラマ、ゲームなどあるが、私はその中でもアニメを好む。両親がドラマをあまり見ず、私に漫画やゲームを買い与えず、それなのにスカパーでアニメ系のチャンネルを契約してくれていたというのが一番の要因だろう。なお、小説というのも有だが、固有名を放棄したいという心境の場合は物語の理解にかかるコストの低い視覚に大きく訴え、かつ自身で進めなくても勝手に物語が進んでいくもののほうがいいのではないかという仮説を持っている。その意味では音楽を聴くというのも有用だろう。私はアニメを見るとき、布団に入り、腹のあたりにクッションを載せ、その上にスマホを置いて横になり、イヤホンをつけて再生ボタンを押す。アニメの中の物語の主人公、あるいは神の視点に自己を投影し、その世界に没入する。そして彼らが困難を乗り越え成長し幸せを手に入れていく過程に寄り添うことで自身も同等の経験を疑似体験し幸せになる。なおこの時、私の目的は苦しさを感じている固有名を放棄することでその苦しさから逃避し、匿名の中で幸せになりたいということであるため、基本的には日常モノや部活モノなど、全体的に明るい雰囲気の作品を選ぶ。特に京都アニメーションやP.A.worksの作品は、視聴終了後に温かい気持ちになり前を向ける作品ばかりなので気に入っている。
また、自身の固有名を捨てて旅に出るというのも効果的であるらしい。やり方は簡単で、偽名を使うのだという。全くの別人として旅先でふるまうことで違う人の人生を生きている気持になれるそうだ。これは演劇などとも近しいものがあるのかもしれない。なお私は、旅を自身の成長の材料としてとらえているため、自身の固有名で過ごさなければあまり意味がないと感じているためやったことがない。
固有名を放棄し匿名になるためには、だれか他者の命に少しでも触れなければならない。これが、人間が独りぼっちでは生きていけないことの一つの要因であると私は考えている。