人の判断基準【バギオ留学】
こんにちは。
バギオは今選挙1ヶ月前で沢山の選挙カーが爆音で街を走っています。バギオという街についても、また今度書かせてください!興味深い街。
さて!前回記事を読んでくださった方、ありがとうございました。
本当に駄文ですみません。
今回は、私って人をどうやって判断しているんだろ~!ということを書きたいと思います。
学び
留学生活が始まって1ヶ月。
留学生活で何を学んでいるかというと、一番は自分について学んでいる気がしています。
誰も知っている人がいない、そして誰も私を知らない街にきて浮彫になるのが、自分という人間がどういう人間なのか、ということ。
留学あるあるというか陳腐なことだけど、やっぱり自分が経験すると本当にそうだなと思います。
学歴という魔力
こちらに来て気が付いた事の1つが、自分がすごく人を学力で測ろうとしているな、という事。
スムーズな言語コミュニケーションをとることが難しいからなのか、肩書や数字といったわかりやすいものに価値基準を置いて、自分が人(特に外国人のクラス/バッジメイト)を見ている事に気が付きました。
この人ってこの国では、あの国ではどれくらいの学力の人なんだろう、、というのを、特に最初の頃は頻繁に考えていた…。調べたりもした(笑)
学歴で人を測る会社の事を、センスないと言っていたにも関わらず、自分もそんなナンセンスな価値基準を根強く持っていたという事に、自分の器の小ささを痛感させられたのです。
何者
この基準にハッとさせられたのは、1週目の週末にスクールトリップで、バギオからは少し離れた100islandという島に行った時のこと。
100islandに向かう道中は治安のよいバギオと違い、貧しさ溢れる郊外を通り抜けて行きました。水上で暮らす人々、ボロボロの服を着てハエがたかるご飯を手で食べる子どもたち、日本ではなかなか見られない光景がそこにはありました。
その暮らしを見て、かわいそうだとか、私は恵まれているだとか、私が何とかしなきゃ!みたいな感情があふれ出ることはなかった、けど、もし私が彼らの前に立った時、私は何者でもないんだなというのを強く強く感じた。
たとえ日本で賢いとされる学校に通っていたとしても、私は彼らをその場で笑顔にすることはできない。歌を歌って喜ばせることも、即興で遊びを作って一緒に楽しむことも、料理をふるまう事も、一緒に踊りを踊ることも。言葉も通じないから話を聞くことさえできない。
学力自体には価値はなくて、その学力を持って、何ができるか、誰をどう幸せにできるのか。それが大切だったよなと、何か忘れていたことを思い出させられた気がしました。
変化
そしてこれを書きながら、そういえば人の学歴を全く気にしなくなっている自分というのに気が付くのです。
笑顔で挨拶してくれる人、体調を気遣ってくれる人、ごはんを残さない人、全てにthankyouと言える人、わからないことをわからないと表明できる人、人の話に耳と心をちゃんと傾けられる人、、、
言葉を抜いたちょっとした態度でも人の性格というのは垣間見えるもので、物質的な数字で判断する必要なんてなかったなって単純に思います。
外付けの判断基準が少ないから学歴とかわかりやすいものに飛びつこうとしていたけど、逆に外付けの判断基準が少ないからこそ、見えるものもあると気付けた。
外付けの判断基準が少ないと、自然と今目の前にいる“あなた”に集中できる。
人からの噂なんて信じる必要もないし、私が、今見ている“あなた”をどう思うか、それに尽きる。すごくシンプルで、しがらみがない。生きやすいなと思った。
だんだん話せるようになってくると、
人の話を遮らない人、人のネガティブキャンペーンをしない人、知ったかぶらない人、自分の意見をしっかりと持っている人、社会に対する問題意識がある人、自分の一つ一つの行動にちゃんとした動機がある人、行動力がある人、とか、
自分が内発的に重きを置いている価値で人を素敵だな、好きだなと思える。
(あと、日本人が私しかいないときにでも英語しゃべってくれる人好き笑)
これって幸せというか、東京にいた頃は、人に関しても情報過多だったなって思うんです。
人に関する感情が、自分が見て接して感じたことか、人の解釈を聞いて自分が感じたことだったか、時々忘れちゃうんですよね。(本当に良くない)
自分が見たこと聞いたこと調べたこと、そこから生まれた感情を第一に信じて、
その次に信頼できる人の情報を信じる、というセオリーが崩れると、なんだかある種の生きづらさみたいなのが生まれるのかもな、と思ったりもします。
勿論情報の取捨選択スキルは大事だし、
何よりも、自分の目で見たこと聞いた事、というのを純粋に信じて、自分の内発的な価値基準で人を素敵だなと思いたいとフィリピンにきて強く思っています。
おわりに
また長くなってしまいました。
今回は人の判断基準、価値基準の話でした。
そもそも、基準なんていらないのかもしれないし、意識する必要なんてないのかもしれないです。
でも、きっと人は意識せずとも何かしらの基準で人を好きだとか嫌いだとか感じているんだと思っていて、どうせjudgeするんだったら、人が決めた基準や人の解釈より、できるだけ自分の内発的な価値基準で人と接せれた方が、幸せな気がしています。
それにしても、決して奢ることなく人を慮れる自立した人というのは、本当に素敵だなと思う~。自分もそんな人であれるよう、そんな人である“かのように”毎日を過ごしてみようと思います。
(親友が先日日本から、東洋哲学の本の中で「かのように」ふるまう事が大切と言及されている事をシェアしてくれました^^)
では!