心の穏やかさとパワー
こんにちは。
バギオに来て2か月が経過しました。この1ヶ月はとても早く感じました。きっとこの生活に慣れてきたからだと思います。
こちらに来て、特にこの1ヶ月、心がとても穏やかでした。
フィリピンの時間の流れ、バギオの時間の流れ(田舎に比べたら早いbusyらしいけれど)に体が適応してきて、目的地まで40分くらいだったら歩こうかな、とか、ジプニー来るまで1時間30分とか普通に待てちゃったり、心が驚く程にpeacefulです。
4月は休日が多かったこともあり、
街に一人でふらふら出かけたり、アート系統のワークショップに参加したり、乗り物はジプニーばっかだったり、、、
そんなこんなで余計フィリピンに順応しているのだと思います。
ちょっとしたことで怒らないし、風の音を聞けるし、呼吸も心なしか深い。
毎朝ベッドもきれいに整えるし、遅くても12時には寝る。
もう東京の5分置きに来るストレスフルな顔だらけの満員電車とか、バスが1分遅れただけでイライラする生活は、ドラマの中の話、という感覚です。
↑雨の日のジプニーステーション。列長かった、、
きっと、私はずっと、今みたいな生活を求めていた。
穏やかで、丁寧。足るを知っていて、必要以上に何かを求めない。
でも、素敵だな、と思う一方で、退屈だ、と感じてしまう自分はいつもいる。
あるフィリピンの友達の幸せや笑いの沸点の低さに、元気をもらい心の豊かさを感じる一方で、心の底から一緒に笑いあえない自分もいる。
どうやら、東京で生まれ育った私は、やっぱり目まぐるしさの中で生きるのに慣れているらしい。
ひとつひとつの≪意味≫を問うてしまうし、それは自分の成長にどう携わっているのか、みたいな観点で一つ一つ見てしまう。自分は自分のことしか考えてない、という事なのだろうか。これを、心が貧しいというのだろうか。
私は何かコンテンツがないと楽しめない典型的な東京の子どもなのだろうか。
今のフィリピンの穏やかな、何気ない日常生活を退屈だ、と思っているのか、
そういう何気ない生活の中で自分の事ばかり考えてしまう自分にうんざりし退屈だ、と思っているのか。どっちなんだろう。
この生活に何かしらの愛というか、人と人との深いつながりみたいなものがあれば、満たされるのだろうか。
色んなハテナと、私しか知る由のない問いが次々浮かび上がる。
その果てに、
憧れに憧れた田舎暮らしみたいな生活(精神的豊かさ的な)に、
自分は根本的に幸せを感じられない性質なのかもしれないと思ってしまい、幸せになり方がよくわからなくなってしまった。
↑参加したWSのかご編みの道具。かご編むの難しかった。
今の私の≪穏やか≫には、パワーがなくて、生きているという感じがあんまりしないのです。
とても穏やか、静か、平和。とても幸せな事だとわかるのだけど、なんか違う。
“好き”の衝動に駆られない。“欲”という何かがない。
パワーにみなぎっていたい自分が、ここに確かにいる。
喜怒哀楽していたい自分が、ここにいる。
何かしらの熱量やパワーを持っているだけで、それって価値なんだなって気付く。
だから、好き、や夢を持っている人は強いし人を惹きつけるのだとも思う。
でも欲は人を盲目にもするし、、
と、書いていて、
あれ、
穏やかとパワーって相反関係でないかも。
穏やかなパワーっていうのもあるなあ。なんて思い始めてきた。
私が欲しいのは穏やかなパワーなのかな。
静かであっても、誰かのために何かをしたい。とか、何かをとっても大切に思っているとか、
そういう類の熱量なのかな。もうわからないなあ。
急がずに、焦らずに、でも、何かしらの強い熱量とパッションを持っている、穏やかで力強い、しなやかなパワーを持つ人になりたいな。
今はまだ、そうなるにはどうしたらよいのか答えが出ていないけれども。
目標に向かって激しく努力すること、そのために自分の心をもすり減らすことが幸せなのか、
今の自分を受け入れ生きていくことが幸せなのか、一方それを妥協と呼ぶのか。
この類の問いは、ちょっとやそっとではまだ解けなくて。
ただ1つわかるのは、自分の好きでもないことのために心をすり減らすのはとんでもなくしんどいだろうということだけ。
おわり
一段とまとまりのない文章、答えも起承転結もない文章になってしまいました。
私の思っている事、最近考えていることでした。
きっとヒントは“人”とか“愛”とかにあると思うのだけど、、、。
もやもやもやもや!!!!