あむ・おる・ほどく―ファッション研究の所信(初心)表明として
はじめに
ファッションとの出会いは、高校に入学するかしないかの頃だったと思う。
きっかけは定かではないが、好きなミュージシャンが愛用のスニーカーやらについて語っていたのを見て、とか恐らくそんなところ。憧れが何よりの原動力となり、華やかなイメージの中に身を浸すことにのめり込んでいった。
そんなこんなで最初の半年間はスニーカーやストリート、次いで古着、デザイナーズという具合に興味が移行していった。今も移行のさなかにいる。
ただ僕はここで、自分のファッション遍歴を開示したいわけではない。
着飾ることはもちろん好きだし、そのスタイルについてこれまで作り上げてきた個人的な美学をいっちょまえに語ることも、できなくはない。そんなこと言うとお前ごときの半端物が抜かすな、と生粋の洋服好きから怒られそうだけれど。
ともかくもここで言語化を試みたいのは、ファッションという事柄がいかに多様で奥深い価値をもっているか、そしてその価値をどのように見出し広げていくかについての僕なりのマニフェストとでもいうべきものだ。
というのも、ファッションは単なる趣味嗜好としてでなく、無限にも近い探求のテーマとしての可能性を持っているように、僕には思えるからである。
そんな思いが昂じて、僕は自分の大学でファッション研究会なるサークルを同級生数人と立ち上げた。ファッションについて多角的な理解を得るべく、リサーチや服作り、ゲストを招いてのレクチャーなど多様な試みが交差する「庭」のようなサークルに育てていくつもりだ。
まだ活動は始まったばかりだし、どうなるかもわからない。ファッションの魅力に目覚めたあの頃と同じように、目の前にあまりにも多くの未踏領域が広がっていることへの当惑と高揚のせいで気が気でない。そんな中、ひとまずの射程として、自分がざっと考えつくことを備忘録的に書き連ねていく。
ファッション研究の射程
ファッション研究と銘打つからには、まずもってファッションに関する学術的研究、というものを想定している。学術的とはつまるところ、言葉や数字によって対象を深く考察していく、ということだ。
ファッションデザインなどの分野では、言葉を経由しないイメージや感覚によって創作活動がなされることもあるだろう。そのような活動を実践してみる場としての機能を、自分たちのサークルに認めないつもりはない。だがそういった行為について思考する上でも言葉は欠かせないものであるし、十分な思考を欠いた創作物は思想的に貧相であると言わざるをえない。
言うなれば、言葉(text)を通してファッションを眺めることによって、その細部を織りなす構成要素(textile)をつまびらかにする、ということ。
これは単なるダジャレではない。
プルーストは自身の文学(テクスト)を織物(テキスタイル)のメタファーのもとで形づくる意志を明確に表していたし、W.ベンヤミンはプルースト文学という一つの織物(テクストゥム)の襞(ひだ)にひそむ記憶を紐解くことで、自身の唯物論的な歴史観を展開していった。(ⅰ)
ファッションは社会的な流行現象であるから、時代の移り変わりに伴う集団的な心理過程を反映しているとみることができる。近代になると、身分や職業による区別があいまいになり、それを視覚化するものとしてのファッションの機能も希薄になった。誰もが比較的平等な社会的承認を得られうる社会では、他者と際だって自己のアイデンティティを確立するための差異化が要求されるようになる。「個性」という概念の誕生である。ファッションは新たに、個性を表出させるものとしての役割を担うこととなった。(ⅱ)
個性が問題になると、それを欲望する個人の身体にもスポットが当たる。
衣服をまとうことの肉体的感覚、また自分の身体を加工する欲求などから、誰もに普遍的なファッションという現象を考察した鷲田清一はその代表的論客である。自己の身体は自分で知り尽くすことのできない不確定なものであり、その不安を払拭する道具としてファッションや身体加工があると主張した(ⅲ)ことは有名だが、彼に限らず、私たちの多くが自分の身体と衣服の関係について考えたことがあるのではないか。カネコアヤノの『布と皮膚』は、衣服と身体にまつわる経験を巧みに描いている点で僕も大好きな曲だ。
眠れないほどの興奮(または不安)、自分の存在が拡散していくような感覚をしずめるために、布と皮膚を交互になぞって身体の輪郭を確かめる―そんな経験を支えるのもまた衣服である。
ほかにも、絶えず移りゆくモード(流行)という現象について考察することもできる。
ジンメルは流行現象を、相反する二つの人間的欲求の動きから生じるとした。(ⅳ) 彼が流行は内的な欲求から生まれると考えた一方で、ボードリヤールやロラン・バルトは「記号=消費」という視点から流行の外的な形成について論じた。消費を言語的に分析することを通して、差異を求め続けるファッションの移ろいやすさやそのメカニズムを記述する試みとでも言おうか。
学術的研究が「書かれたもの」に根ざす以上、雑誌や広告にみられる文言も研究対象となる。ファッション誌に代表されるメディアの変化と、それに伴う読者の変遷は、消費や社会的意識の研究とも連続するものである。(ⅴ)
また、ファッションと他の思想文化との関連を探ることも、忘れるわけにはいかない。
ファッションはいつの時代も、様々なカルチャーと相互に影響を及ぼしあっている。音楽がファッションに与えた影響は計り知れないし、特定のスタイルをとることがその人の文化的背景やスタンスを表明することに直結した事例も沢山あるだろう。他のアート領域に関しても、ファッションブランドANREALAGEは17-18AWコレクションにおいて彫刻家の名和晃平とコラボした作品を発表しているし、フセイン・チャラヤンは建築的発想にもとづいたファッションによって両ジャンルの境界を揺さぶっている。絵画は長らくファッションという題材に魅せられてきた芸術であり、今ではそれが描かれた当時の装束をうかがい知る服飾史研究の貴重な資料にもなっている。20世紀半ば、フランスを中心に隆盛を極めた実存主義の支持者たちは、黒の衣服を全身にまとってカフェに集い、議論に花を咲かせたという。広く文化を愛する者にとっては、このように豊かな文化交流があった/あることそれ自体に心躍るのである。
と、そんな具合に「ファッション研究」とよびうる様々な研究のアプローチを列挙してきたわけだが、ここまで読んだだけでもファッションというテーマに実に多様な可能性が秘められていることをご理解いただけたと思う。
これでファッション研究のあらゆるアプローチに言及できたとは到底思わないし、僕としてはこれら個々のアプローチをどのように総合するかの方が重要であるように思える。これから新しい視点や手法が提案され、流れが変わることもあるだろう。
おわりに
ファッションという事象は、ざっと一瞥しただけでも非常に多くの探求可能性に満ちあふれている。にもかかわらず、西洋的な学問研究の場では、それは長らく軽薄で低俗なものとして避けられてきた。近年になってその風潮が見直され、「ファッション学」やそれを踏まえた「ファッション研究」の流れが確立されはじめている。(ⅵ)
僕は今、移ろいやすいものにこそ生のアクチュアリティがあると言いたい。
不確かでつかみどころのない、生きた流れとしてファッションを眺めると、こんなに面白い題材はなかなかないと思う。
ファッションという困難な主題を形作る糸を一本一本ていねいに解きほぐし、理解したい。一人でその多様な側面をカバーすることが難しいからこそ、それを深めるための場が必要だったのだ。サークルの立ち上げメンバーの中には、レヴィナスやメルロ・ポンティをファッションの文脈の中で読んでみたいとすでに言ってくれている同級生もいる。なんと頼もしいことか。
僕たちのファッション研究会が編み物の名前を冠しているのは、学術的なものからより実践的なものまで、様々なアプローチの糸が交差して美しい模様が編まれることを願ってのことだ。
テクストを「織る」、試みの糸を「編む」、ファッションを「ほどく」。
いまはそのための庭を育てている。
・・・といった最後に保険をかけるのも何だが、僕個人は大学での専攻をファッションに定めたわけでもないし、都市や演劇など、関心のある分野は他にもある。(ファッションのように)移ろいやすい自分の興味のなかで今後も拙いファッション考を垂れ流していくことになろうが、幼い子どもの成長期とでも思って温かく見守っていただきたい。他の関心分野とファッションが繋がることがあっても面白いかもしれない。
よいお年を。
参照
(ⅰ)ウルリッヒ・レーマン『ベンヤミンと近代のファッションという革命』、田邉恵子訳、『表象 13』(月曜社、2019)所収
(ⅱ)ジョアン・フィンケルシュタイン『ファッションの文化社会学』、成実弘至訳、せりか書房、2007
(ⅲ)鷲田清一『ひとはなぜ服を着るのか』、筑摩書房、2012ほか
(ⅳ)ゲオルク・ジンメル『ジンメル著作集〈7〉文化の哲学』円子修平・大久保健治訳、白水社、1976
(ⅴ)小形道正、『ファッションを語る方法と課題 : 消費・身体・メディアを越えて』、『社会学評論 63 (4)』p487-502, 2013、日本社会学会
(ⅵ)工藤雅人『「ファッション研究」の研究動向』日本家政学会誌72 (3) p172-179, 2021、一般社団法人 日本家政学会