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グッバイ、レーニン!(Good Bye! Lenin) ーソラを飛び舞うコミュニティ
はじめに 1989年11月9日の夜、突然押し寄せた東ベルリン市民によって28歳を迎えた「冷戦」の象徴であったベルリンの壁は壊された。
壁の崩壊は、「一つの共同体」(a community)の崩壊につながった。
コミュニティの崩壊は、ベルリンの壁崩壊以前からはじまっていた。東ドイツでだけでなく、ハンガリー、チェコ共和国を問わず、一国の領域(territory)に縛られていた市民は、越境し始めた。中には、政府によって積極的に取り締まられることなく、ある程度自由に国境を越えることが許されていたところもあった。このコミュニティを越えて新たなフロンティアを求めるのは自然であり、許されるべきことになったのだ。
コミュニティの崩壊は、歴史的な事件として徐々に進行していったが、壁が崩れるという象徴的且つ、視覚的に確認できる形でそのコミュニティは崩壊した。
あまりにも様々な研究と解釈が加えられた歴史的事件である「ベルリンの壁崩壊」を背景に展開されるこの映画、グッバイレーニン!(Good Bye Lenin!、2003)は、その内容には直接的に政治的見解や、歴史を塗り替える再解釈を含んでいない。監督ヴォルフガング·ベッカー(Wolfgang Becker)は、この映画の中で、「私は描きたかったのはあくまでも小さな家族の物語である。明らかに政治的な背景を舞台としているが、それはあくまでも背景であり、その部分に、社会的メッセージを込めた意図はない。」と言う。1)しかし、監督にその積極的・直接的な意図がなくとも、この映画は明らかに「生き方」についての話、主張が込められている。
そもそも監督の彼描きたかった家族という共同体(Family)と政治共同体(Political Community)との間には、「共同体として生きる知恵」という共通点が明らかに存在する。
家族の間には、家族のメンバーだけが共有する知恵があり、それは連帯感を生む。この連帯感の中核をなす知恵は家訓や家柄、家の慣習などの独自の原則と基準に基づいて運用されている「家族の営み」の姿として体現される。亭主関白・男尊女卑の色合いが濃厚な家庭、子どもを自由奔放に育てる教育方針や親と子の関係が友達のような関係、比較的平等であったり、規律が強かったり、緩かったりと、その営みの形は違っても、各家庭ごとに基準と原則があるのは共同体として生きるそれなりの知恵が反映された証である。
一方、政治的共同体というコミュニティも根本的には、共同体として生きる知恵が反映されている。よく政治を権力闘争と勢力間の争いとして描写することがある。党内政治、政党間の政治的攻防、政治的な意図、官僚政治などの用例は「政治的なもの」の意味が上記の定義に基づいて使われていることを表していない。政治的なものとは分配(Distribution)に関するものである。分配の原則、法則、基準の線を引く方法について互いに議論をすることが真の政治的攻防だと言える。政治的共同体に存在する法規や規律は、すべての政治共同体政治的共同体の連帯のための共同体的な生き方が反映されたものである。 もちろん歴史の中でイデオロギーによって共同体が再編成され、その政治的目的が暴力を通して達成された歴史も存在する。政治的共同体は、その集団規模により、共同体としての生き方が慎重に選択される必要がある。
コミュニティは車輪と同じである。互いに力を合わせて回転させるとうまく一定の速度起動に乗り、慣性によって転がって行く。しかし、政治共同体や家族は、大きな車輪と小さな車輪である。大きな車輪は一度動き出すと、その動きを制御することは難しくなる。その車輪が転がってくることもしらず考えることなく佇んでいた人たちは、歴史の犠牲者になる。一方、小さな車輪は、その動きを止めるのも比較的容易である。家族共同体という小さな車輪が転がっていく様をとおして大きな車輪の姿を推測することができる。監督は明らかに政治共同体の運命を背景にした舞台で、家族共同体のナレイティブ(Narrative)を介して共同体的な生活の知恵を話したかったのだ。
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