阪神・淡路大震災に寄せた過去の文章(1)
下掲の拙文が2000年度から筑摩書房の高等学校国語(現代文)教科書「ちくま現代文」に採用されました。初収は『生者と死者のほとり』(人文書院、1997。¥1900+税)。収載に当たっては、一部固有名詞等が変更されている。
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去年の晩秋のことだったと思います。何かおにぎりでも買ってこようかと国道沿いのファミリーマートへ出かけ、ちょっと路地へ入って帰ろうとしたのです。ああここもこんなだったかとか、たしかこの辺に小学校の同級生の家があったはずだがとか思いながら歩いていて、あっつぶれた散髪屋がこんなところに移ってきてやってるんだ、よかったよかった、と思ってふと気づくと道に迷っているようでした。もっと南にあるはずの阪神電車の線路が間近で視野を遮っていました。なぜこんなところに線路が? と驚いた途端、曲がらなきゃいけない道を曲がりそびれ、家を少し行き過ぎる形になっていることがわかったのです。
家まで3分ぐらいの、目をつぶっていても歩けると思っていたご近所でのことでしたから、われながらおかしくて、一人で吹き出しそうになったと同時に、そんなにも変わってしまったのかと溜め息つきそうになりました。
ちょっとした路地に入ってみようと思ったのは、やはりどうなっているんだろうという物見の心があったからに違いない。観光とまで自分を苛むつもりはないが、見慣れぬ風景を見るというのは確かに新鮮なことであって、それが災いの痕であっても、目新しいということだけで足が向いたとしても、自然なことだったかも知れないが。そんなちょっとした気紛れがいけなかったのか。
更地になり、あるいは前栽や敷石だけを残して裸の区画となってしまった家の跡を目にすることになる。ここもか、ここもか、と数える思いは、いったいどのような心持ちか。自分の住む家は残っている。家族も親戚も無事だった。なのに他人の家が潰れた跡を目にしては、そこで起こり今も続いているかなしみを想像して、自分がここを歩いていることのリアリティを確かめようとしているのか? 案の定、そんな空に架けたリアリティに足をすくわれるような形で、道を失っていたのだ。
私たちは歩き慣れている道ではあっても、無意識のようにいくつかの目印を付けている。角のクリーニング屋だったりうどん屋だったり、あそこの家の犬はかわいいとか、小学校の同級生の家だったり。それらのものがことごとく失われていた。その上、小さい頃刈ってもらっていた散髪屋が場所を移したというのもフェイントだった。これが白昼、家から三分のところでの迷子の言い訳だ。
道に迷ったことに気づいた瞬間というのは奇妙なものですね。それまで確かに自分をやさしく包み込んでくれていた風景が、急に色を変え、見知らぬ者を訝しむような顔つきになります。ここが私の住む魚崎だというのはただの思い込みに過ぎなくて、本当はどこかで不思議な路地に迷い込んで、見知らぬ遠いところへ放り出されているのかも知れません。
家から駅までの数分間、大きなマンションと数件の比較的新しい家以外、ほとんどの家が全壊し、数人の方が亡くなられました。2年たった今となっては、多くの家が新築成り、更地を見ても道路の盛り上がりやひび割れを見ても驚かなくなっています。でも、たまにJR住吉駅のほうや甲南本通りを歩いたりすると、ああ、ここもこんなだったかとか、ここには洒落た家があったのになあだとか思われて、足どりが重くなります。でも一方で、あのまま放置されている爪痕はないかと、さがす目になっていたりしないでしょうか。応急修理されていた道路の盛り上がりや亀裂も、年度末を控えていよいよ本格的な工事が始まったようです。阪神高速が開通して高架を車が走っているのが目に入った時は、何だかクラクラしてしまいました。まだちょっと早過ぎるんじゃないの、と問い詰めたいような気分になって。何もなかったように新しい道路が、元と同じように、あるいは前よりよいものとして作られ、何もなかったようにたくさんの車がその上を走っている姿が、防音板に透けてシルエットのように見えるのです。またはネガのように。
何もかもが何かの間違いなのではないかという、デスペレートな気持ちに陥りそうに。
どうしても自分を責める気持ちから抜け出ることができない。被害がなかったことにおいて、何もボランティアといえるようなことをしなかったことにおいて、直後の何時間か何日かシャットアウト状態とでもいうべきていたらくだったことにおいて。
懺悔したいような心がある。罪滅ぼしのような。たとえば日本海側に重油をすくいに行かなければというような。それはとりあえず言っておけば「お返し」ということなのだが、そのような言い方以上に、何か逼迫した矢も盾もたまらぬような思いがある。癒そうとしているのだろうか。
どうにもいまだに不思議で自分でも納得できないでいるのですが、真冬の朝五時四十六分という時刻だったのに、しばらくして居間の窓から斜向かいのお宅が崩れているのが砂ぼこりの向こうにだがはっきりと見えたことです。はっきりと、数年前まで私たちも(かつてのわが家の方がかなり小さいとはいえ)同じ造りのそのようなところに住んでいた家がひしゃげているのを目にし、悲鳴のように妻を呼んでいました。
おそらくあの大きな揺れの直後は、布団の中でしばらく妻と、これはいったい何だったのだろうと、呆けたように妙に冷静に、何ということなくおしゃべりをしていたのではなかったか。揺れの最後の方では確かにこのまま続けばこの家も崩れると恐怖を感じたとはいうものの、とりあえず家屋は無事だったというしれっとした安堵と共に、あまりの揺れに気を削がれてしまったせいか、不思議な空白に包まれていたような気がする。おそらくその空白感が長く続いたということだったのだ。
しばらくして、様子を見に魚崎小学校まで歩きました。体育館にも運動場にもたくさんの人が座り込んでいました。パジャマの上から毛布や布団を羽織って。何人かは卓球台の上に横になっていました。妻に尋ねるまで、それが遺体だということに、全く思いが及びませんでした。
そしてまた十数分後でしょうか、四軒南のペシャンコに押し潰されたお宅の屋根の上に茶髪の青年がよじ登って「あかんわ、あかんわ」とさかんに大声を出していたのを見て、「何をしているのだろう」と訝しく思ったのでした。
シャットアウト状態とでも呼ぶしかない空白感とは、このようなことだ。他者への想像力が、愛と言ってもいいが、完全に剥落していた(もともと欠落していたなどとは言うまい)。大地が揺れたこと自体は、ただの自然現象で、などとうそぶくには少々きつすぎる揺れだった。とは言え、家が潰れたわけでもない。周りが完全に壊れた中で身の回りだけが残ったことで、かえって露わになった防御の反応だったのだろうか。
斜向かいも向かいも、全壊でしたがもう新築成って、元通りのように住んでおられます。二軒北とその隣は全壊し、一人のおばあちゃんは加古川のほうの娘さんのお宅に引き取られましたが、この間亡くなられたと聞きました。きっとここに帰ってくると言っておられたそうですが。病院裏のテニスコートには住宅公団のアパートが建つそうです。その脇のお宅は売られたようで、その跡に四、五軒の分譲住宅が建てられ、新しい人たちが住んでいます。夏の終わりに、花火をしている家族がありました。
住友林業、大和ハウス、ヘーベルハウス、セキスイハイム、三井ホーム、クボタハウス、……冬の日射しに輝くすべての新築の家には何らかの悲劇が秘められている……というのは過剰な感傷だろうか。「新築祝い」という言葉の空々しさ。「きれいなおうちができましたね。ほんと、よかったですねえ」と掛けた言葉に「孫に住まわせてやれればよかったんですが」と涙ぐまれる場景を思い描いて、声を掛けられない。
更地に久しぶりに花が供えられているなと見ていたら、間もなく地鎮祭がありました。元いた人たちが戻ってこられるようです。新しい生活が始まります。亡くなった子どもさんの部屋を抱えた出発かもしれません。キラキラと輝く新築の家は、中心にぽっかりと空間を、柔らかく抱えているのでしょうか。
きっと何年かのち、またそれは新たな思いを呼びさますことになるでしょう。「○○ちゃんの部屋」と呼ばれるその部屋は(○○ちゃんはたとえばずーっと六歳のままだったりするわけですが)、いつかたとえば家族が増えるときに○○ちゃんの部屋ではなくなります。すべてのキラキラ輝く新築の家に籠められているそのときの思いを思いませんか。○○ちゃんの不在を芯に家を造ってしまった人たちは、いつか訪れる旅立ちをどのように迎えることができるのでしょうか。劇はいつか終わらなければならないのです。
戦前からの古い家並みは、ことごとく失われた。しかしそれは、早晩失われるものだった。現に、私の家だって、数年前に父が思い立って改築し、おかげで助かったわけだ。そのように一軒一軒まるで順番のように思い立つことで、街並みは少しずつ姿を変えるものだった。だから、何十年かのうちにすっかり姿を変えても、「私の街」であることができるというものだ。
もちろんここではそうはいかなかった。すべてがいちどきに行われる。まず徹底的に壊され、更地になり、やっと少しずつ新築成る。私たちはそれを知っている。覚えている。定かにすべてが記憶されているわけではないが、かつてそこに建っていたものが壊れたこと、今また新しいものが建っていることを見ている。
既視感というのでもないが、あの後しばらく、無事にちゃんと建っているものが壊れたのを見たことがあるような錯覚に悩まされた。まるで再びの大きな地震によって壊れたのを未来の私が見た上で、ここに帰ってきているような。それはおそらく、ちゃんとまたはかろうじて建っているものを訝しみ、おそれる気持ちから生じた幻だったのだ。建っているのが何かの間違いであるというような。
あの数瞬によって、幼い頃から見慣れた風景のほとんどは失われた。しかし私の心にざらついているのはそのことではなくて、壊れずに残っているものを奇妙に思い、また申し訳なく思っている気持ちだ。
あの数瞬によって、この街では多くの人の生命や思い出が失われた。しかし私の心にざらついているのはそのことではなくて、死なずに残っている自分を奇妙なもののように思い、また申し訳なく思っている気持ちだ。
数カ月が経って、突然同僚のKさんが亡くなりました。地震の前から入院していて経過は良好だったと聞いていたし、見舞いに行けば元気そうな姿を見せてくれていたのですが。なんでも、一種の薬物反応のために急変したとのこと。三十八歳でした。
震災で肉親や友人の死も、これといった家財の滅失も経験しなかった幸運な私にとって、それはあれ以降初めて経験したリアルな喪失だったのかも知れません。部署こそ違え、修羅場のような慌ただしさを共にくぐり抜けてきた同志として、またその人柄や仕事ぶりに格別の親しみと敬意をもって接してきた人だっただけに、突然彼がいなくなったことは、大きな衝撃でした。雨の葬儀から何日か経って、通勤電車で吊り革にもたれていると、ここにこのかなしみを知っている人はいないのだと、遠く突き落とされるような思いにとらわれ、車窓の瓦礫の風景が急に遠のいていくように思えたのです。
私たちが毎日通勤電車の中でぼーっとしていられるのは、車窓を移る風景が毎日見慣れたもので、特に目を引くものが何もないからです。ほら、桜の美しい季節に線路脇の古木が満開の花をつけているのに気づいたら、手にしていた新聞から目を上げ、目を奪われることになるでしょう? あの後、私たちの目に入るものはすべて、大きすぎるほどのメッセージでした。ひしゃげた家、盛り上がりひび割れた道路、傾いたマンション、焼け跡、コップに差された花……どこを歩いていても目に入るそれらすべてが、圧倒的な力で迫ってきていたのでした。それが遠のいてしまったように思えたのでした。
思えば、Kさんの死は、あの日以来初めて、この風景の中での私固有のかなしみだったのではなかったか。この災厄に引き起こされた私のかなしみは、私個人のものではなく、他人のかなしみを想像したもらい泣きの域を出ず、家屋や家族を失ったわけでもなく、職場は被害の中心地から遠く離れて無事だった私は、どこかで人々のかなしみに同調するために、かなしみを焦っていたのではなかったか。ろくな被災もしていないのに、被災の気分に浸ろうというような。
いや、われながらいささかきつい物言いに過ぎたかも知れない。壊れている風景を遠いものと感じてしまったのは、むしろ自分が壊れていたからだったとは言えないだろうか。
自分も壊れている。あのときに壊れたのは街並みであり風景だったかも知れないが、それからゆっくりと、他人のかなしみをかなしむことによって自分が壊れていっている。同じ速度で壊れているのではなくて、遅速の差があって、それが合わないときに人は実際以上にどちらかの壊れを感じ取るのではないだろうか。Kさんを失うことで、私の壊れがやっと風景の壊れに追いついたのかも知れない。
亡くなった多くの人について、さまざまなエピソードが書かれ、どちらかと言うと好んでそれらを読んだ。それもまた、風景と自身の間に横たわる壊れの格差を埋めようとしたものだったのかも知れない。ある記事は前夜の楽しげな団欒を、またある本では彼や彼女の生前の夢が綴られていた。それらの文字の多くは私の心を深く同調させ、時には電車の中で涙があふれそうになってあわてて上を向いてこらえたこともあった。そのように本から目を上げると、もう車窓の家並みには青いビニールシートをかぶせた屋根もなく、たくさんの工事用の緑のネットで覆われた建築中の建物に、「復興の槌音」が高いことが知られるのだが。
私は覆っています。私が受けなかった傷を。届けなかった思いを。救わなかったものを。覆うことで癒されるとでもいうのかと思われるでしょうか。癒されることよりとどめておくことを望んでいるのかもしれません。望んでいるというより、とどまるべきだと思っているのかもしれません。この街で私たちは、本当はまだ覆っていたいのではないでしょうか。二年を経たからこそ、今さらに覆っておきたい、覆わなければならないものさえあるように思っています。
もちろん、過去はまだ存在するものとして留め置かれ(*2)ているはずなのだが、過去に存在していて今はない物や人について、本当にまだ存在するものとして留め置かれていると言ったり感じたりできるか。いくつもの大切なものが失われ、今はまだそれを限りなく深く悲傷しているのに、私たちにそれを連続させるということが許されているのかどうか、意識の流れという本来的に同一性を保っているはずのものが、その時に切断されてしまって、今もそのままだというような気がしてならない。いったん途切れたものが、何もなかったようにまた滔々と流れることができるのだろうか。私は壊れとして、断片として生きていくことになったのだろうか。
初出: 『生者と死者のほとり』(人文書院、1997。¥1900+税)
笠原芳光+季村敏夫編著。写真=宮本隆司。共著者=佐々木幹郎、村田憲司、瀧克則、濱田洋一、木内寛子、藤井貞和、太田省吾、中永公子、細見和之、季村範江、笠原和子、牧秀一、伊佐秀夫、黒木賢一、福神岳志、寺田匡宏、野田正彰、宮本佳明