賤ヶ岳の合戦の真実
佐久間盛政が率いた軍勢は史料によっては1万5千人。
いずれにしても大軍であり彼らを送り出した柴田勝家には戦局を大きく動かそうとする意図があったことが窺える。
『江州余吾庄合戦覚書』(・盛政は事前に撤退することも想定していて、退路に部隊を置いていた。そのため撤退は上手く進んだ。
・だが(撤退を支援するために配置された)後方にいた部隊が逃走したため、敗北した。と記述)で示された「退路の確保」『渡辺勘兵衛記』(・撤退戦で奇襲部隊は善戦。
・柴田勝政の軍勢は羽柴軍の銃撃を受けて負傷者多数、そこへ羽柴軍が攻めかかったので総崩れに。しかし尾根道の高みに2千ばかりの敵軍が布陣していたので、勝政勢は(友軍を頼みにして)そこで踏みとどまった。
・両軍は二時ほど睨み合っていたが、急に柴田方が動揺して崩れたので、羽柴軍が追撃して勝利した。と記述
※奇襲作戦が柴田軍の敗因とは記されていない。)・『一柳家記』(・秀吉は夜通しで近江へ帰還。羽柴軍は翌日の午前3時頃に大岩山へ攻めかかる。
・盛政はすでに撤退を始めていたが、大軍だったので午前4時頃まで掛かった。奇襲部隊の撤退は速かった。
・北国軍(奇襲部隊か勝政勢)が雨のように矢を放ち羽柴軍を足止め。盛政は諸将の軍勢を集め、殿軍を務める軍勢を待ち、引き返して羽柴軍と戦うことを繰り返しながら撤退。羽柴軍にとって厳しい戦いだった。
・やがて盛政勢(勝政勢?)は敗北し、敵味方入り乱れて凄まじい追撃戦が行われた。
・盛政は敗北した軍勢を収容し、1万5千の軍勢を集結させて辺りで一番高い山に陣取り、決戦の構えを見せた。
・羽柴軍の先鋒部隊は負傷者が出て疲労もしていたので休息。その間に秀吉が旗本部隊を率いて到着。後続も到着して羽柴軍は大軍になった。・決戦が始まり、まず羽柴軍から攻撃を仕掛けたが、北国軍の弓と鉄砲の射撃により羽柴軍に多数の死傷者が出た。・藤堂高虎の手勢が北国軍と銃撃戦を行い、さらに(北国軍と羽柴軍が)接近戦をしばらく行っていると、盛政の陣地に何らかの異変があって北国軍は敗北した。
・その異変とは、馬が暴れて諸将の軍勢が驚いた、喧嘩が起きた、あるいは謀反人がいた、のいずれかである。
・羽柴軍は勝ちに乗じて追撃を行った。北国軍は敗走したが、引き返して戦い討死した者も大勢いた。と記述)にも記された「追われる奇襲部隊が追う側の羽柴軍に痛撃を加えた」戦果に加えて『一柳家記』の記述から考えられる奇襲部隊や柴田勝政勢が「大量の矢弾を想定される退路の要所に運び込んだ可能性」から奇襲部隊は初めから撤退戦も想定した入念な準備を行った可能性が考えられる。
この戦いは柴田方が結果的に「羽柴方を堅固な陣地から誘き出して山岳戦に引き摺り込んだ」という見方もできる。
奇襲部隊の善戦はあるいは、こうして退路に配置されただろう部隊=疲労が少ない部隊が奇襲部隊に順次合流し、殿軍を交替で引き受けることで実現したのかもしれない。
対して羽柴軍の追撃部隊は全員が長距離を移動しなければならず特に美濃から戻ってきた主力部隊の疲労は深刻なものだったと推測される。
『太閤記』には、「前田殿の軍勢が茂山にいてくれるから」と佐久間盛政が後退を止めて布陣し羽柴方に決戦を挑もうとしたところへ拝郷家嘉が盛政を諌めてさらに後退すべきだと進言する場面がある。
拝郷が決戦を諌めた理由は「羽柴方があまりに大軍だから無茶」というものだった。
そして羽柴方の大軍に怯えた後方の部隊が逃走し奇襲部隊は動揺して羽柴方に敗北した。
盛政は刑死、拝郷は戦死したので拝郷の諫言の部分は創作の可能性もあるが拝郷が本当に懸念したのは敵だったのか味方だったのか考えさせられる記述である。
奇襲作戦は奇襲部隊の後方を誰かが守る必要があった。
佐久間盛政は(内心は疑いを抱いたとしても)前田勢を信じることが前提の作戦を行った。
そうでなければ神明山方面から羽柴方が進出して奇襲部隊の退路を脅かす事態を防ぐ大事な役割を、別の武将が行うよう進言したはずである。
(北陸で長年共に戦った柴田勝政、拝郷家嘉、徳山則秀など)
・秀吉の軍勢が前日近江にいなかったとはいえ大身の支持者だった中川清秀の軍勢を見殺し。
・美濃では秀吉軍の総攻撃が中止されたため岐阜の織田信孝とその軍勢が健在。
・奇襲部隊に損害を与えないと美濃―近江間の主力行軍が徒労になってしまう。
・逆襲を受けて羽柴軍の方に損害が出た。
・奇襲部隊が先に高所を押さえて布陣し待ち構えている。
この秀吉軍の苦境を覆して勝利をもたらしたのが「後方部隊の逃走」であり、それは秀吉が追撃を諦めず奇襲部隊に食い下がった結果として生じた状況が可能にした一手だった。
佐久間盛政たち奇襲部隊は「慢心した猪武者たちが神速の秀吉軍にしてやられた」どころか困難な撤退戦でも秀吉軍の追撃を跳ね返し決戦の構えまで見せるなどよく団結していた上に事前の準備も入念に行っていたことを窺わせる善戦振りで、
秀吉軍が帰還
→しばらく時間が経ってから奇襲部隊が撤退を開始→秀吉軍が追撃を開始
→奇襲部隊が善戦→奇襲部隊が柴田勝政勢を救援、奇襲部隊が布陣
→羽柴軍との決戦が始まる時に柴田軍の味方が逃走し動揺が広がる
→秀吉軍の攻撃を受けて奇襲部隊が敗走
戦いの決着は翌日の夜明けから更に数時間経って付いているし秀吉帰還から勝敗が決するまでの長い時間こそ奇襲部隊が大活躍した時間だ。
「前田利家隊が賤ヶ岳合戦で撤退したけど結局裏切りなのか敗走なのか?」とか疑問抱いている人いるけど勝手に戦線離脱してるし味方の援護もしないで撤退だから完璧に裏切り敵前逃亡なんだよね。しかも利敵行為だし。
「家臣が多数討ち死してるし裏切りにしては損害が大きい」とか言ってる人もいるけど、秀吉方の末端の部隊まで前田利家隊が戦線離脱してくれると伝わっていなかったから攻撃された説・勝家方が敵前逃亡をいち早く察知して攻撃を加えた説・敵前逃亡で裏崩れが起きて逃亡する勝家方やそれを追撃する秀吉方に巻き込まれて攻撃を加えられた説が考えられる。
「府中城でも秀吉に抵抗試みた形跡ある」と言う人もいるけど、秀吉方の末端の部隊まで前田利家隊が戦線離脱してくれると伝わっていなかったから攻撃された説なら秀吉に不信感を抱き抵抗する素振りをみせても不思議ではない。
前田利家が秀吉に調略されてたにしろされてないにしろ戦が決着してないのに勝手に戦線離脱した時点で裏切りだ。
奇襲部隊の敗北は羽柴軍の総攻撃を受ける前の自壊から始まり
それは友軍の逃亡により生じた動揺と混乱がもたらしたものであることが分かる。
そこに戦後の事実として
・秀吉は前田家に加賀北部の2郡を加増した。
これを考えると逃走した部隊とは前田利家の軍勢だったことが推測できる。
そしてこの戦線離脱が原因で奇襲部隊そして柴田軍は敗北した。戦場から離脱しただけの金森長近は十万石も加増されたりはしなかった。
また逃亡したのが別の軍勢だったなら前田家家臣の小瀬甫庵は
『太閤記』
(・成立は江戸時代初期。著者は小瀬甫庵(前田家の家臣)
・秀吉と関係ない前田家が活躍した北陸の合戦も詳細に記述。そのおかげで荒山合戦での盛政の活躍もしっかり描写されている。
・柴田勝豊が秀吉に降った理由は、『柴田合戦記』{・賤ヶ岳の戦いのすぐ後に成立。著者は大村由己[秀吉の祐筆]
・柴田勝豊が秀吉に降ったのは、勝豊が傲慢な佐久間盛政を嫌っていたため。
・羽柴軍の砦を襲撃した盛政の活躍と雄姿を絶賛している。
柴田軍が出てきたことを秀吉が喜んだ描写はあるが、あくまで堂々と決戦しようという意気込みである。
・秀吉の帰還を知った柴田軍は動揺したが、総大将の柴田勝家は立派な人物だったので将兵は必死に戦い、柴田軍・羽柴軍ともに多数の戦死者が出た。と記される※奇襲作戦については、それを柴田軍の敗因とは記していない。}のそれに加えて柴田勝家が問題のある人物だったから。ただし降伏した柴田勝豊を厳しく批判もしている。
・奇襲作戦の経緯として織田信孝を救援する手立てが必要となり山路正国が奇襲作戦を盛政に提案。盛政は賛成して柴田勝家に進言し、その際に柴田勝家から戦果を挙げたらすぐに引き揚げるよう命じられた。盛政は大岩山・岩崎山を奪取した後、勝家に催促されても引き上げなかった。そうしている内に秀吉が近江へ帰還した。
・ただし撤退戦では奇襲部隊も柴田勝政の軍勢も奮戦したことが詳しく描写されている。
・茂山に前田利家が布陣していることを頼みにして、盛政は羽柴軍に決戦を挑もうとしたが、続々と集結する羽柴の大軍を見て北国勢の後方にいた部隊が逃げ出した。そこへ羽柴軍が総攻撃を行って勝利した。
・羽柴軍に囚われた盛政の発言「勝家様の指示通りに引き上げていれば、こんなことにはならなかった。戦果を敗北で失わず、上方勢を侮らなければ~~」
・盛政は処刑される際、顔色一つ変えず首を刎ねられた。
『太閤記』では盛政の慢心が敗北を招いたが、撤退戦での活躍や敵前逃亡した部隊のことも記されている。)で紛らわしい書き方はしなかっただろうし、あるいは逃走した部隊を率いた武将の名前をはっきり記しただろう。
こうしてみると「柴田勝家が盛政に早く撤退するよう指示した」や「盛政の慢心が敗北を招いた」という記述も疑わしくなってくる。
ただし『太閤記』を読んだ当時の前田家の人々や著者の小瀬甫庵には葛藤があったかもしれない。
『太閤記』の記述だけでも、前田勢が疑われるには十分だからである。
加賀百万石の繁栄の基礎を築いた偉大な藩祖と二代目の汚点を記すことはできない。敗因は佐久間盛政に負わせるが、盛政の活躍も記す。読者には察してほしい。
なお当時の前田家当主は三代目の前田利常で、当事者だった父と兄は故人で意見を求めることはできなかった。
また賤ヶ岳の戦いは織田家中の内紛であり、合戦当時は前田父子の行動は特に世間から咎められず、江戸時代になってから価値観の変化で問題視されるようになり各史料は曖昧に記述したという可能性も考えられる。
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