普通であることの勇気
「普通であることの勇気」というこのフレーズ。
「アドラー心理学入門」(岸見一郎 著)という本の中に見つけて以来、頭の片隅にひっかかっています。
普通であることを受け入れることができないと人は特別であろうとします。自分は特別で優秀でなければならない・・・。あるいは、自分は特別に悪くなければならないのだ、と・・・。
特別に悪く、というのは、例えば子どもがわざと非行に走るといった行動が含まれます。
普通でいること。
平凡でいること。
そこにとどまり、そこで満足するには、もはや勇気や覚悟、少なくとも意識が必要なのかもしれないと思いました。
優れていたい、秀でていたい、という欲求が気を抜くとすぐに表れます。
一方でアドラーは優越性の追求や劣等感についてこのように言っているそうです。
まったく無理な状態から脱したいと願う意味で、優れていようとすることは誰にでも見られる普遍的な欲求である。
この優越性の追求と対になるのが劣等感で、この劣等感も誰にでもある。
優越性の追求も劣等感も病気ではなく、健康で正常な努力と成長への刺激である。
そうだよね。優越性の追求、成長欲求っていうのは決して悪いものではなくて、自然なこと。
ただ「それがどこから来るのか」によって成長欲求と向き合う時の感覚も変わってくるような気がします。
①純粋にそれに興味があって、出来るようになりたいから、成長したい。
②誰かに評価してもらうために、成長したい。
③誰かよりも優れていると優越性を感じたいから、成長したい。
皆さんの成長欲求は、どこ由来ですか?
私の場合、学生時代はほとんど②③だったように思います。
学校という枠、成績を付けられるという枠を抜け出た大人になってから①に寄って行っている感じ。(この記事を書きながら、会社で評価されて出世したいという欲がそこまで無い自分に気づく。余談だが。。)
そして、もっと早く①の感覚で自分の学習欲や成長を楽しみたかった、と思ってしまいます。
評価が付くから、とか、負けず嫌いだから、という点が時に大きなエネルギーとなって人を成長に導くことがあるというのは、自分自身の経験として実感していますし、子供を見ていても強く感じるので、否定する気は全然ありません。
でもそれだけだと、いつか苦しくなる時が来るような、限界がくるような気もするのです。
理想を言えば、①の状態で優越性を追求していけると、自分も楽しいし、「ここまでやったから、もういいや」という終わりも来ないので伸びしろが無限大。良いことだらけだな、と思うのです。
「普通であることの勇気」の話から少しそれてしまいました。私は何が言いたかったんだろう。何を思ったんだろう。笑
自分の根底に「普通であることの勇気」を持ち、ありのままの自分、平凡な自分が良し!と受け入れることが出来ている。
そして、それをベースにしつつ、自分の純粋な興味関心に従って、成長欲求や学習欲と向き合っていく。
それが出来たら、生きやすいな~と思ったのかな。だから「普通であることの勇気」というフレーズに惹かれたのかな。
(アドラー心理学について詳しいわけではないので、自分なりの解釈で色々と書き連ねてしまいましたが、そもそもアドラーが言っている意図は少し違うよ、ということがあったらご指摘下さいm(_ _)m)