第四章 停点理論〜マンデラエフェクトの意味
停点における物理法則
停点理論は、ある未来において科学的に解明されている。梯子氏に接近してきた人たちは、それを用いた科学の力で、あり得ない停点移動をしているようだ。なお、ゆんゆんはそうした人工的なことをしなくても停点を自由に移動できるという。ここでは、停点理論の科学的解明には到底踏み込めないが、せめて概念的に理解していくことにしよう。
梯子氏がゆんゆんと話した際に書き留めたメモが、天日予氏の本に紹介されている。その内容を引用しながら解説を試みよう。
大きな集合体としての想念は物理に干渉する=命あるもの全ての集合無意識が本流を決めている
この実例をひとつ、拙著「視えない世界はこんなに役に立つ」に紹介してある。東北大学の教官だった早坂秀雄氏は、右回りのジャイロは軽くなるという衝撃的な結果を発表して注目を浴びた。しかし同じ結果を出せたのはほんの一握りの学者のみで、大多数の学者は同じ結果を出せなかった。それどころかその後、早坂氏までが、今までと同じ実験結果を出せなくなってきたのだ。この場合、当初の集合無意識にとってはジャイロが軽くなろうがなるまいがどうでもよいことだった。しかしこの結果が注目され、物理法則としてそんなことはあるはずはないという思いの人たちが一定数に増えた結果、早坂氏自身も今までの結果を出せなくなったのだと考えられる。
停点は多面体
選ばれた停点は「点」ではなく多面体として存在し、それは次元毎に本のようにページとして重なっている
(注:この引用にある多面体は多様体の間違いではないのかと、BTTP氏が梯子氏に聞いた。多様体は簡単に言うと、局所的な領域と全体的な領域とが違う性質を持つけれど、それが連続的に繋がっている空間と言える。その問いに梯子氏は「多様体の方だと思います」と答えたことがこの記事のコメントに書かれている。筆者は無限に多くの面を持った多面体を考えていたが、多様体の方が確かにしっくりとくるし、すでに述べた停点の現実がマルチレベルだという話と通じる。とは言え、理系でない人は無限面の多面体を想像してもらえれば、当たらずとも頭からずと言えるだろう。)
とても難しい概念だが、人の意識は階層化されていることを考えると少しわかってきそうだ。実は催眠における深いトランス状態で、被験者が読心、透視、予知などの異常能力を示すことがある。少し催眠の人知れぬ歴史を紹介しよう。
18世紀後半。モーツァルトのパトロンとしても有名なフランツ・アントン・メスメル(Franz Anton Mesmer, 1734 – 1815)は、独特な療法を行う医者だった。メスメルは、人体には何か見えない自然の力が流れていて、その流れを整えることによって障害が治ると考え、この流れを「動物磁気」と呼んだ。1778年にメスメルがパリに移ると、その療法を熱狂的に受け入れる人たちと、否定する人たちとの間で、彼はとにかく有名になった。この、原理はわからないがとにかく病気を治してしまう療法はメスメリズムと呼ばれ、メスメルの死後も一部の人たちの間で研究が続けられた。
ピュイゼギュール(Puységur)侯爵は元陸軍将校で、退役後にメスメリズムを学び、自分の領地に住む人たちをこの療法で治療しようとしていた。5月のある日、肺のうっ血と熱に苦しんでいた、領地の羊飼いであるヴィクトル・レース(Victor Race)の家に侯爵は入り、彼にメスメリズムを施した。その際侯爵は、ヴィクトルが異常な意識状態に陥っていることに気づいた。寝ている間にも意識があり、声を出し、質問に答え、正常な状態よりもずっと明るい心境を見せていたのだ。侯爵はヴィクトルを楽しい気分に誘導し踊らせ、大量の汗をかかせた。翌日、ヴィクトルは前日の侯爵の訪問を覚えておらず、どれほど気分がよくなったかを話したと、ピュイゼギュールは自著に書いている。
ヴィクトルの状態に興味を持った侯爵は、他の人にもメスメリズムを試み、同様な状態が得られることを確かめた。やがて、この動物磁気状態の患者にさらに異常な現象が現れることがわかってきた。ピュイゼギュール侯爵は、被験者たちが自分や他人の病気を診断し、どの治療が必要なのかまでわかるようになるのを見てきたのだ。実験を続けた彼は、ヴィクトルが自分の考えを読んでいるように思い、他の被験者でも試した結果、はっきりと読心状態が起きるのを確認した。これはピュイゼギュールの妄想ではなく他の人によっても確認されている。心霊現象を熱心に研究していたオコロヴィッツ(Ochorowicz)博士が1887年に書いた本に、次の記述がある。
このような異常現象はピュイゼギュールの被験者たちだけではなく、ヨーロッパ各地の研究者たちによって観察された。例えばイギリスのジョン・エリオットソン(John Elliotson)は、てんかんの治療のために彼の病院に入院していたオッキー姉妹を使ってメスメリズムの実験を始めた。エリオットソンは姉妹を使って病院内で、透視や感覚の変換(指で見るなど)、思考の伝達、感覚の共有などを実演して見せた。姉のエリザベスには医療透視の才能もあり、エリオットソンは真夜中に彼女を病室に連れ込み、診断と治療をさせていたという。当時の哲学者として名高いショーペンハウアー(Schopenhauer)は著書「パレルガ・ウント・パラリポメナ」において
とまで書いている。
しかしこうした磁気状態での異常は、メスメリズムを施術する人によって起きたり起きなかったりしていた。結局のところ、こうした異常は被験者と施術者との、互いの現実の折り合いによって起きている。ピュイゼギュールは元々心霊現象に理解があったのかもしれない。そして、メスメリズムに催眠の用語を与えたジェイムズ・ブレイド(James Braid)は、おそらく霊の存在すら信じていなかった。そのため1844年の公演で、従来催眠によって発現するとされた、透視、千里眼、読心などが間違いであると主張することになったのだ。
人は無意識レベルが高くなればなるほど異常な力を持つ。これは確かなことだ。先に述べた現実の多層構造とこの事実を考えると、停点が「多面体(多様体)として存在し、それは次元毎に本のようにページとして重なっている」というのがイメージできて来ないだろうか。
本流と分流
本流の中には個としての分流、その他の分流があり、本流に逆らわなければ個としての意識で停点を選べる
例えばタクシー乗り場にすごい行列ができていて、まだしばらく家に帰れないとする。
ここで、ふと気づいたらもう家に戻っていたという現実はそうそう起こらない。なぜなら集合無意識はそのような現実が頻繁に起きることを認めないからだ。そこで個人ができるのは、たまたま友人があなたを見つけ、自分の車で家まで送ってくれるなどという、常識の範囲の幸運を引き寄せるくらい。でも、気づいたらもう家に戻っていた、という現実が実際に起きてしまったらどうなるのだろう。本流の中には、超能力が当たり前の人たちから、全くあり得ないと考えている人たちまで様々な人がいる。そして、それぞれの人たちが作る分流がある。こうした分流の両極端を形作る人の数がそれなりに多い場合、二つの分流には、その違いに気づけるほど異なった物理法則、歴史が形作られているのではないだろうか。
つまり、もともと超常現象などないと考えていた人が瞬間移動してしまった場合、その人は違う歴史の分流に移動し、マンデラエフェクト的な個人体験をすると考えられるのだ。このからくりは、マンデラエフェクトを考えていく上での重要な要素となる。
本流にはポイント(PP)があり、不規則、ルールがまるでわからない
PPを辿らない流れは、決して本流ではない
PPに関わる流れにリープ、あるいは自分の理想を引き寄せた場合、幹から外れ、自分のいるところは本流ではなくなる
PPは人である
この内容を読み解くのは非常に難しい。そのため梯子氏といくつかやりとりをしていたが、今回ここでは、その内容を書かないことにした。実際、その内容がなくても、全体の理解に問題は生じないのだ。PPについての考察は、またいずれ機会があったら書くことにしよう。
改めて本流と分流についてまとめよう。停点のつながりとしてバイブルがある。本流のバイブルがとても太いチューブで、その中に無数の太さの異なる、分流としてのチューブが詰まっているのを想像してほしい。さらにそれらの分流のチューブが一緒になったり分かれたり、途中で終わったりするのを想像すると、現実の流れが少しわかるのではないだろうか。
異常な停点移動
2008年2月23日の朝、スペインのレリーナ・ガルシア・ゴルド(Lerina Garcia Gordo)は起きたらシーツが違うことに気づいた。これにはあまり気を止めず、とりあえず20年間働いているオフィスに行くと、そこは彼女のオフィスではなかったのだ。組織図を調べてみると、彼女は違う部署で、知らない部長の下で働いていることになっていた。その後もたくさんの記憶の食い違いが起きる。付き合っていた彼は存在しない。それどころか、半年前に別れたはずの彼氏とまだ付き合っていることになっている。近所に住んでいる男の子に会ったとき、いつもどおりに話しかけたのだが、彼は彼女を知らない。そこでレリーナが少年について知っていることをいろいろと語ったところ、彼女は超能力者か何かと思われたようだ。
彼女は同じような体験をした人がいたらメールが欲しい、と広く訴えた。それから6年ほどの間に約6000通のメールを受け取ったが、ほとんどのメールは彼女の読めない言語で書かれていた。また、スペイン語・英語のメールであっても90%は好奇心で来ていて、5%は「うそつき、偽物」となじるメールで役に立たない。それでも、残りの5%は実際に役立つメールだった。そこには彼女と同じような体験が、ときには彼女以上にインパクトのある形で書かれていたのだ。
ちなみに筆者が彼女に連絡したのは2018年だったが、そのとき彼女はこう言ってきた。
彼女に何が起きてこれほどの分流移動をしたのかはわからないが、やはり、現実が揺らぎすぎるのは考えものだと言える。付き合っていた彼氏を探すため、彼女は私立探偵まで雇ったのだが、彼はこの世界線に存在していなかった。
梯子氏は15以上のバイブルを経験しているとのことだが、こうした話をするとよく聞かれることがある。意識がいつも以上のジャンプをするとき、ジャンプ先の世界線には別な人生を歩んでいる自分がいるはずだ。その自分はどうなってしまうのか、そして元の世界線の自分はどうなってしまうのかと。そう考える人はまだ停点とそのつながりをよくわかっていない。
他の停点にいる自分たち?
魂は複数の停点に焦点を当てることが可能だが、自我はひとつの停点にしか焦点を当てられない。その結果、同じ自分(魂)に属するのだが、違う人生を歩んでいる複数の自我たちは確かに存在し得る。彼らが次に進む可能性のある停点はそれぞれ無限に存在するが、お互いの人生が異なれば異なるほど、共通の停点は少ないと言える。ここで自我Aが本来進む先ではない、自我Bの領域の停点に移動したとする。しかしその停点が、自我Bが選んだ停点と一致する確率は限りなく低い。そして自我Aは、普通ではないジャンプをしてきた過去を踏まえた次の停点に移動していき、自我Bはごく普通の範囲の停点移動をしていくだけなのだ。この先も自我Aが選ぶ停点と自我Bが選ぶそれとは、そうそう重ならないことだろう。
もちろん、こうした移動の際に二人が奇跡的に同じ停点を選んでしまう確率は0ではない。ただこれは通常、非常に近い人生を歩む二者の間でしか起こらないので、ちょっとした記憶違いで済んでしまう。しかしもし、かなり異なる二つの自我が、たまたま同じ停点を選んでしまったらどうなるのだろう。この状態にあったと考えられる事例があることはあるが、この件はこれ以上踏み込まないことにする。ただ、これらのケースにおいてでさえ、自我A、自我Bが進んだ停点にはそれぞれ、意識が移る前の、単なる可能性としての自分がいたはず。この「自分」はいったいどのような存在なのだろう。
筆者はこれがいわゆる幽霊みたいな存在だと考えている。この意味をはっきりさせ、停点というものをさらに理解してもらうには、死後の世界の研究を持ち出さなければならない。実際、マンデラエフェクトは、人間とはどのような存在なのか、記憶とは何なのか、そして世界はどのようにできているのか、を解明しなければ、その本当の意味がわかってこないのだ。次は死後の世界の研究を紹介しよう。