28.「幸せ」は自分自身に寛ぐこと
王子様で何ひとつ不自由のない生活の中で、しかも誰もが憧れるような暮らしに「苦しさ」を感じたブッダは、家出をし様々な苦行の末に「苦行」には意味がないと知り、風雨さえしのぐことの出来ない菩提樹のもとで瞑想し「悟り」という最高の「幸せ」を手に入れる。
歴史的・世界的規模の有名人であるブッダの人生は示唆的である。
「幸せ」とは、その人の「心」が決めるといっていい。
「幸せ」とは、その人が心から「幸せ」と思えたときに達成されるものである。
もし王子様で何不自由ない生活にブッダが「幸せ」を感じることができたなら、それがブッダの「幸せ」となっていただろう。
だから「幸せ」をどうとらえるかは、その人次第となる。
自分の心が満たされたならば、どんな環境であろうと「幸せ」になることができる。
ならば「自分の心が満たされる」とはどういった状態なのか。
そのひとつに「自分に満足する」ということがあるといってもいいかもしれない。
自分という存在を否定することなく、過度に鼓舞する必要もなく静かな状態で満足できるようになったとき「幸せ」を実感できるようになるのではないかと思う。
もちろん、これは僕が思う「幸せ」だ。
「幸せ」の定義は一人ひとり異なるものであり、「幸せ」の定義はむしろ異なるべきものなのだ。
「幸せ」の定義が一つしかなかったなら、必ず「苦しみ」が生まれることだろう。
ただ「幸せ」の言い換えのひとつとして、「自分に満足する」ということはあると思う。
「幸せ」が「心の状態」であるならば、「自分に満足」できたなら、それが「幸せ」といっていいだろう。
人は「悟り」を得ることができなくても、自分に満足することはできる。
だから、ブッダのように「悟り」を得る必要もない。
だた自分に満足できればいい。
しかも「満足」とはその人なりの捉えようだから、万能になればいいというわけではなく、何かができて何かができない状態であっても、そんな自分に「満足」することも十分可能なのだ。
どんな状況であるにせよ、自分が自分自身に満足して寛ぐことができたとき「幸せ」を感じることができるだろう。
これまでの、3次元的な地球では「幸せ探し」という壮大なゲームを人類総出でしていたのかもしれない。
もし、この地球が5次元に移行し次のステージにいくのであれば、我々は「幸せの状態で何をするか」という、新たなゲームをすることになることだろう。
「幸せ」は、自分が「幸せだ」と思うことで達成できる。
意図して自分自身に寛ぐ習慣を身に付ければ達成可能といっていい。
何かをして上手くいっても上手くいかなくても、自分自身に寛ぐことはできる。
寛ぐことに条件はない。
だだリラックスすればいい。
苦行の果てにたどり着いた菩提樹の下で、静かに瞑想していたブッダは、大いに自分自身に寛いだに違いない。
僕らも自分自身に寛ぐことはいつだって可能だ。
豪華な宮殿の中でも、菩提樹の下でも場所も時間も問わない。
自分に満足し寛ぐことができたとき、人はいつでもどこでも「幸せ」になることができる。
ブッダは、そんな示唆を残している。
自分自身に寛ぐことができたとき、「幸せ」の感情が湧き上がってくるものなのだ。
そういった感覚を広げていけばいい。