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一択で生きるとき、人生を喜びに満たせるようになる

前回の「幸せは受け取り上手になるところから」という記事の中で、「得」ではなく「徳」で生きることの大切さに触れました。

「得」で生きるということは、損得を計算して生きるということですが、「徳」で生きるということは、「心」で生きるということだと思います。

「徳」という字は「行人偏」に「十四の心」と書きますが、「徳」という字は、いってみれば「たくさんの心を使って生きる」という意味で解釈してもいいかもしれません。

損得の「得」は、頭を使って計算して得る「得」で、「徳」は損得を超えた「心」で生きるということ、「心」がそうしたいと望んだことをして生きるという意味と考えてもいいでしょう。

「損得」とは、何かをするときに「損するか得するか」という二つの結果を想定して判断することです。

このため損得の判断には、常に二つの答えがあるものであり、損をしないように頭を使って考えるということです。

その一方で「徳」はというと、「心がそうしたい」と思ったことをすることなので答えは常に一つであり、損をするか得をするかといった判断は度外視してでもしたいこと、という意味になるかもしれません。

損得を考えるということは、そこに根拠が存在するということです。

その一方で、「徳」で生きるということは、ある意味で根拠のない理由で動く行為です。

直観で動くという言い方をしてもいいでしょう。

たとえば、人が恋をするときは根拠のない理由が人を動かすものです。

人が恋に落ちるのというのは、いろんな条件を並べてすべての条件が満たしているから恋に落ちるというわけではありません。

恋に落ちた相手に対して、その人と付き合うと損をするとか得をするとかは一切考えないもであり、損得を超えた根拠のない理由が人を突き動かします。

徳で生きるということは、恋に落ちたときと一緒で、根拠のない理由で動くことであり心で動くということでもあります。

そして、明確な理由もなく衝動で動けるようになったとき、人は自分の人生を歩んでいけるようになるものです。

いってみれば、魂に突き動かされて動いてしまうことが「徳」で生きるということであり、人が「徳」で生きられるようになったとき自分の人生を歩んでいけるようになるといっていいでしょう。

我々は、多分に損得で生きることを教育されているものです。

道筋のない生き方は、回避するように教わって生きていたりするものです。

ではなぜ、損得を考慮することや道筋のある道を生きるように教わるかというと、その方が安全であり失敗する確率が低いからです。

損得を考えて筋道のある道を生きれば無難に生きていけるようになるでしょう。

とはいえ、人には「どうしてもこれをしたい」というような欲求が芽生えるときがあります。

そういった欲求が芽生えたとしても、どうしても損得の判断が、そういった欲求を邪魔してしまうことがあります。

しかし、そういったときほど「どうしてもこれをしたい」というような欲求の方を選択していった方が、より自分らしく生きていけるようになります。

なぜかというと、人が「徳」で生きたとき自分の人生を「心から楽しめる」ようになるからです。

「徳」の字に「心」があるように、「徳」で生きると「心が喜ぶ生き方」ができるようになるのです。

では「心が喜ぶ」こととは何でしょうか。

人は何をすれば、心が喜ぶのでしょうか。

それは、自分がやっていて楽しいこと、嬉しいと感じることです。

自分がやっていて楽しいと感じること嬉しいと感じることは、損得の判断を抜きにしてできることといっていいでしょう。

そういった自分がやっていて楽しいと感じることや嬉しいと感じることをすることができたとき、人は損得の判断を超えて自分の人生を生きられるようになるものです。

そして、損得を超えたところで自分の人生を生きられるようになっていくと、大きな喜びの中で生きていけるようになっていくだけでなく、周りの人にも喜びを与えることができるようになっていくのです。

喜びの感情は、必ず周りへと伝播していきます。

喜びの中で生み出されたものは、どんなものでも喜びの思いが込められています。

そういった思いが他者に自然と伝わっていきます。

心から楽しめることをして喜びを感じるとき、そこに損得の判断はありません。

それをすると損をするから、それをすると得をするからという判断を超えたところにこそ喜びという感情があるのです。

しかも、そういった喜びの感情をもとにして生み出されたものは、しっかりと他者の心に伝わっていくものです。

そういった意味でも、もし心からやってみたい、理由が分からないけれどそれをしてみたいと思えるようなことがあったなら、それは挑戦すべきことです。

損か得かといような二択の判断を超えて、「これしかない」「これをしたい」という一択の思いがあったなら、それは挑戦すべきことといっていいでしょう。

我々は、人生の目的を決めて生まれてきます。

「これしかない」「これをしたい」という思いを抱くということは、それをしたいがために、この地球に生まれてきたということがいえます。

一択の思いを持てるということは、それがその人にとってのこの地球上での役目になる可能性が十分にあります。

根拠のない理由の根拠が、そこにあります。

そうやって自分の徳で生きるとき、自分の人生を歩んでいけるようになるものであり、そうった選択をして心から楽しんで生きることができると自然とうまくいくものなのです。

なぜかというと、それが自分の役目であり、自分の役目を果たすとき上手くいかないはずがないからです。

人生の成功者とは、自分の喜びをどんどん膨らませていく人であり、膨らんでいった喜びを自然な形で他者に分け与えられるようになる人です。

無理して何かをするというのではなく、ただ自分の喜びの気持ちを表現しているだけで、それを他者に分け与えることができるようになります。

もちろん、何かに挑戦したいと思って実際にやってみたとき、行き詰まることもあったりします。

しかし、そういったときでさえ、それをやっていきたいと思えるのであれば、それは自分が課してきた人生の役目ということができます。

それをしているとしっくりとくる、やればやるほどテンションが上がっていく、そういうふうに感じることであれば、それは自分の人生ですべきことといっていいでしょう。

そうやって心から何かを楽しめるときこそ、人は自分を生きることができるようになっていきます。

楽しいを基準にして生きる、あるいは喜びを基準に生きてみる。

そういった選択ができるようになったとき、人はありのままの自分を生きられるようになるものです。

そういった人生を歩むためにも、まずは損得で判断するのではなく自分の心の声に従ってみるのもいいでしょう。

心の声は常に「それをしたい」の一択です。

心の声に損得の勘定はありません。

そんな心の声を見つけることができたとき、人は喜びの中で生きていけるようになるでしょう。

そして、多くの人が喜びという心の声に従って生きられるようになったとき、それぞれがそれぞれの役目を果たせるようになることでしょう。

損得抜きに自分を生きる。

誰もが自分に夢中になって生きる。

それが徳で生きるということなのかもしれません。

自分から溢れ出た徳を分け与えることができるようになったとき、平和で喜びに満ちた世界を築き上げることができることでしょう。

そういうふうになっていけば、この世界はますます平和なものになっていくと思います。

多くの人が喜びで生きることがでいるようになったとき、弥勒の世を生み出すことができるようになることでしょう。

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