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想像が創造の源である

前回の記事で、次のような思いが浮かび上がってきたということを書いた。

お前の求めていることに妥協するな。
あるもので間に合わせようとするな。
本当に求めているものを創造せよ。
創造は想像。
間に合わせようとすればズレる。
心から創造(想像)せよ。

想像し創造する能力を思い出す

なぜ人は「あるもので間に合わせようとしてしまう」のか。

どうして「あるもので間に合わせようとするとズレが生じる」のか。

今回は、この言葉の背後にある思いを検証していきたいと思う。



物が溢れる現代では自ら手間を掛けて何かを生み出さなくても、すでにあるものを選択していけば、楽に生きていけるようになっている。

このため、現代は選択することが生活の主流となっていて、何かを生み出そうという思いが希薄になっているといっていい。

しかし、我々は楽をするために生まれてきているわけではない。

我々には、何かを生み出したいという欲求が備わっている。

そういった自然発生的に生まれる欲求を具現化させたいがために、我々は生きているといってもいいだろう。

文章を書いてみたい、絵を描いてみたい、歌を歌ってみたい、踊ってみたい、演技をしてみたい、洋服を作ってみたい、美味しい料理を作ってみたい等々、そういった何かを生み出したいという思いを誰もが持っている。

あるいは、人に優しくしたい、誰かの手助けをしたい、他者のために貢献したい、そんな思いを持っていたりする。

こういった思いは何かを選んで間に合わせることはできない。

実際に体験し感じてみないと、これらの欲求を満たすことはできないといっていい。

こういった実際に体験しなければ得られないことが、人が持つ欲求の核であり、明確な目的があれば苦労してでもそれを体験したいと思うものだし、本当に体験したいと思うことは、あるもので間に合わせようとは思わない。

分かりやすい例をあげるなら、人は心から食べたいと思うものがあるとき、時間を掛けてでもそれを食べに行き、長時間待つこともいとわなかったりする。

その一方で、単にお腹が空いたというだけで具体的な目的がなければ、あるもので間に合わせたりするものである。

つまり、あるもので間に合わせるということは明確な目的がない場合に起こる現象である。

その一方で、自分が心から求めていることがあるのにも関わらず、あるもので間に合わせてしまうと満足感を得ることができずに、心の中にズレが生じることとなる。

本当に求めていることがあるのにも関わらず、その思いとは裏腹に、あるもので間に合わせてしまえば、喜びが半減してしまい自分と一致することができずにズレが生じてしまう。

だからこそ、心から求めているものがあるならば、それを実際に手に入れて体験する必要があるのだ。

実体験を通じて自分と一致することができれば、ズレを感じることなく喜びを感じて生きていけるようになるだろう。

また、あるもので間に合わせてしまう心理には、無理だと思ってしまう自信のなさもある。

心から求めているものがある一方で、それを手に入れるのにはハードルが高いと感じたり自分には出来ないというような制限を生み出し、あるもので間に合わせてしまえば中途半端な気持ちを抱くことになる。

そういった中途半端な気持ちは、自分と一致できずにズレが生じた状態といっていい。

これらのことが、あるもので間に合わせることで生まれるズレの原因と考えられる。

ここまでのことをまとめると、人がすでにあるもので間に合わせてしまう理由は、一つに明確な目的がないということ、もうひとつは明確な目的があるにもかかわらず、それを手に入れることができないという制限を自らで加えてしまうということとなる。

そこでズレを感じることなく自分と一致して生きていけるようにするには、どうすればいいかというと、第一に自分が何を求めているかを理解し明確な目的を持つこと、次に明確な目的に対して制限を加えずに自らの力で具現化していけばいいということになる。

そうやって心から望むことを具現化していけば自分に一致できるようになり、日々、喜びを感じて生きていけるようになるだろう。

我々は、これをやりたくて生きているといってもいい。

人は誰もが何かをしたい、何かを手に入れたいという欲求を持っている。

こういった本能というべき欲求が、人を動かす原動力となっている。

しかし、我々はまっさらな状態で人生を始めるため、最初の段階では自分が何をしたいのかが分からない。

だから最初はすでにあるものを選んでいき、それを体験していくことで自分が何を欲しているかを知っていく必要がある。

そうやって数多の経験を通じて、自分は何を求めているのかを理解できるようになっていく。

何を求めているか分からない状態のときは、すでにあるものの中から選択しながら体験し、自分の中に潜んでいる欲求を探しあてていく必要がある。

さまざまな経験を通じて、自分の心が何に喜びを感じるのかを探求していくことで、自分の望む対象を知ることができるようになる。

そういった経験を通じて心から求めていることを理解できるようになったなら、今度は、あるもので間に合わせられなくなっていき自らの力で創造していかなければならなくなるだろう。

なぜかといえば、すでにあるものは自分が生み出したものではないため、そそれを選択すればズレが生じるのは当然のことだからだ。

とはいえ、全くのゼロの状態から心から欲するものを生み出すことに難しさを感じてしまうものであり、無理だという思いを抱いてしまったりする。

そうやって自分では無理だという制限を自分に与えてしまえば、心から求めていることを手に入れられなくなってしまう。

心から求めていることは、自ら創造するしか術はない。

自分が書きたい文章を、他者が書いてくれるわけではない。

絵を描く喜びは実際に描かないと感じることができないし、自分が歌わなければ歌う喜びを感じることができない。

演技するのも、踊ることも自分でやらなければ何も創造することはできない。

たとえ無理だという思いがよぎったとしても、その思いを振り払っていかなければ、自分が心から求めていることを手に入れることはできないといっていいだろう。

自分の核心に触れたなら、それは自らの力で生み出していくしかない。

むしろ欲求の核心に触れたなら、それを諦められなくなっていく。

ならば、どうやって自分が心から望むことを生み出していけばいいのか。

それが想像であり創造といっていいだろう。

想像できないことは、何も創造することができない。

しかし、心から求めていることがあるということは、すでにそれを想像できているということであり、その想像を具現化していけばいいということになる。

心から求めているものが明確になっていけばいくほど、より具体的に想像できるようになるものであり、あとはそれを形にしていけばいいだけのこと。

そういった想像する力を使っていけば創造することも容易になっていくことだろう。

奇しくも我々には、想像したものを創造する力を持っている。

この力を上手に使えるようになったなら、自分が心から求めることを生み出すことができるようになるだろう。

想像が創造の源である。

この源の力を使っていけば、想像を創造に変えることができる。

源がそうであるかのように。

では、具体的にどのように想像を創造に変えていけばいいのか。

このことについては、また次回書いていこうと思う。

源には制限がない。

我々も、制限を外していけば自分の望みを実体験として味わうことができるようになるだろう。



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