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想像し創造する能力を思い出す
先日の3連休、埼玉の友人宅に遊びに行った帰りの特急電車の中で、ビールを飲みながら外の景色を眺めていたら、こんな思いがよぎった。
お前の求めていることに妥協するな。
あるもので間に合わせようとするな。
本当に求めているものを創造せよ。
創造は想像。
間に合わせようとすればズレる。
心から創造(想像)せよ。
我々は、すでに存在する物の中から選択するという洗脳がされている。
しかし、本来は無から有を生み出すことが本質なのだ。
誰もが新しい何かを生み出す力を持っている。
その能力を思い出せ。
その場しのぎで生きるな。
想像せよ。
創造せよ。
なぜ、こんな思いがよぎったのかは分からない。
少し酔いが回り始めて、気分がよくなっていたからかもしれない。
あるいは、最近の生活に何かしらのマンネリを感じていたのかもしれない。
いずれにせよ、これまで以上に自分の内なる欲求を追い求めていってもいいのかもしれないと思った。
上記の思いをスマホのメモ機能に書き写し、しばらく思いを巡らしてみた。
現代人の我々は、あるものの中から選択するということに慣らされている。
商品はたくさん存在し、その中から必要なものを選んで購入すれば、それで済むという生活が当たり前になっている。
もちろん、商品だけに限ったわけではない。
たとえば自分の進路を決めるとき、すでにあるものの中から選ぶということが当然のこととなっているといっていいだろう。
我々には自由意思が存在する。
だから可能性という意味では、すでにある学校や会社に進路を求める以外の選択肢を持ってもいいはずなのだ。
現在の生活では、全くのゼロから何かを生み出すということはあまりない。
すでにあるものの中から選択すれば、それで成り立つ世の中で我々は生きている。
現代は新しい何かを生み出すことより、いい選択をすることが上手な生き方となっているように思えてならない。
しかし、数十年前の今ほど物が溢れていない頃は、ないものは自分で生み出すしかないという考えが残っていたように思う。
僕の親の世代は、本棚のような簡単な家具なら自分で創っていたし、子どもに着せる洋服なんかも手作りで造っていた。
もう少し時代を遡るなら、生活に必要な日用品を自然の中から調達し、まさにゼロから生み出していた。
これまでの歴史を振り返れば、そういった時代の方が長かったといっていい。
つまり、現在のように物で溢れていない時代は、人は創造する能力を持っていたと考えることができる。
物を調達するところから始めて、全くのゼロから完成品を生み出していく。
そういった過程の中で、人は創造する力を養っていたと考えることができる。
今の社会のようにあるものを選べば済むということは、とても便利であるけれど、その一方で、我々は創造する力が弱まっているということもできるだろう。
新しく何かを創り出すには時間が掛かるし試行錯誤を強いられる。
また時間を掛けて何かを生み出しても、それに満足できないことも多かったに違いない。
しかし、必要なものや欲しいと感じたものを思い描き、それを具現化していくことで、人は生きていく力を養うことができていたに違いない。
そういった想像し創造することが、我々に本来備わっている能力といっていいだろう。
我々、人間は直立し両手を使えるようにできている。
また、我々には想像する能力も備わっている。
こういった身体の仕組みや能力は他の動物にはないものであり、いってみれば、我々は、この地球上で唯一、想像し創造できる能力を持っている種であるといえる。
つまり、想像し創造することがこの地球上での我々の役割であるということもできるだろう。
だからこそ、我々には何かを生み出したい、何かを創作したいという欲求が備わっているといえるのだ。
我々は創作することに喜びを感じるものであり、そういった喜びを感じて生きるとき、自分と一致することができる。
しかし、すでに存在するものの中から選べばいいという考えは、我々の創造する力を弱めることになるのかもしれない。
あるものの中から何かを選ぶだけでは、その背後にある仕組みを知ることはできない。
しかし、何もない状態から何かを生み出し完成させれば、その過程でその成り立ちや仕組みも理解できるようになる。
そういった背後にある仕組みを知らずに、何かを選択することだけで済ませていると物事の本質を知ることができず、場合によっては知らず知らずのうちに何かしらの操作を受け入れてしまうことになる。
物事の背後にある仕組みを知ることができないでいると、簡単に洗脳されやすくなる可能性もあるだろう。
我々の想像し創造する力を持ってすれば、遠い海の向こうから石油を買ってそれをエネルギーに変える必要もないはずなのだ。
本来なら身近なところで、もっと簡単に日常生活を営むくらいのエネルギーを得ることができるはず。
我々は選ぶことに慣れ過ぎて、創作する力が弱まっているといってもいいかもしれない。
今以上によりよくできるという能力を奪われているかもしれない。
選ぶことの安易さが、本質に迫ろうとする人の思いを奪っている可能性もある。
創作意欲を持つことで、人は前向きに生きていけるようになる。
しかし、創作させずに選ばせるように仕向けることで、我々が本来持ち合わせている力が奪われ、生きていくための力も弱められていると考えられる。
選べばいいというその場しのぎの思いが、人の本質に向き合わせないようにさせているといってもいいかもしれない。
だからこそ、もし心から欲しいと思えることがあるのなら、それを想像し創造した方がいい。
すでにあるものの中から選ぶのではなく、自分の思いを知ってそれをどうすれば具現化できるかを想像し創造していった方が、心からの満足を得られるようになるだろう。
創造する過程を知ることで、自分の可能性を広げていけるようになる。
現在の便利さを否定するわけではない。
ただ心から欲しいと思えることをすでにあるもので済ませるのではなく、あえて時間を掛けて丁寧にかつ丹念に想像し創造していった方が、大きな喜びを伴わせて生きていけるようになるだろう。
自分には想像し創造できる力が備わっていると知り、その能力を使って生きていけば、人は怖れを抱くことなく生きていけるようになる。
生み出す力を持てるようになれば、自分に自信を持たせることができる。
創造する力を持っいているということは、選択する力以上にパワフルであり、そのパワフルさを使って生きられれば、より自由に生きていけるようになるだろう。
選択することには限りがある。
しかし、創造には限りがない。
想像し創造するという、本来、我々に備わっている能力を使って生きていけるようになるとき、人は自分らしく生きていけるようになる。
何かを作り生み出すことだけが創造ではない。
よい出会いを生み出したり、自分が望む未来を生み出すことも創造に含まれる。
そういった目に見えないことを創造できる力を我々は持っている。
だからこそ、あるもので間に合わせようとするのではなく、自分の心が望むものを自分で生み出していけば、自分にズレることなく生きていけるようになるだろう。
選ぶのではなく、想像し創造して生きていく。
それが人間の喜びの本質であり、それをしたくて我々はこの地球に存在しているのだ。
心から求めることがあるのなら、それは想像し創造した方が自分らしく生きていけるようになる。
想像し創造する力を思い出す。
それが自分を生きるための第一歩となることだろう。
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