第37回:「喜び」で生きるという粋な生き方
今回は、「喜び」で生きるという粋な生き方、というテーマで書いていきます。
人は、自分にとってかけがえのない「喜び」を見つけられると楽に生きられるようになります。その一方で、自分にとってのかけがえの「喜び」を見つけられないと人生が苦しく感じます。
というのも、「喜び」は自分の存在理由を感じさせてくれるものであるため、自分にとってのかけがえのない「喜び」を見つけられないと、自分がこの世界に存在していることの意味を感じられなくなってしまうからです。
しかし、自分にとってかけがえのない「喜び」を見つけることができると、あとは、それをシンプルに追いかけていくだけでいいので、最終的には、運まかせ天まかせで生きられるようになっていきます。
掛け替えのない「喜び」を見つけられると楽しく生きていける
人間にとって、一番楽しい時間は何かに夢中になっているときといっていいでしょう。だからこそ、人は誰もが夢中になりたくて、夢中になることを探して生きているといえます。
子どもがゲームにはまるのは、楽しくて夢中になれるからです。また子供が運動を楽しく思うのもやはり夢中になれるからです。楽しいという感覚は、身体を動かすことで得られるため、夢中になるためには身体のどこかを動かしている必要があるといっていいでしょう。
ゲームをしているときも身体を動かしていますし、運動も当然、身体を動かします。読書だったて脳を動かすから楽しいし夢中になれるのだと思ういます。
最近読んでいる、千賀一生さんの「タオの法則」という本の中に面白いことが書かれているので紹介します。
私は、これを読んで、なるほどと思いました。よく健康のためには体を動かした方がいいといわれますが、このことは大人限らず、子供にも当てはまることなんだと理解できました。人は年齢に関係なく何かをして身体を動かしていたり頭を回転させていることが、当たり前のことなのだと思えたのです。
また、朝礼で生徒が倒れてしまうのは、楽しくないからなのだとも思いました。登下校に限らず、休み時間に校庭で元気よく身体を動かしているときは、夢中になっているから貧血になることはありません。小学生のころに図工や体育が楽しかったのは、やはり身体を動かすことが楽しかったからといっていいでしょう。
とはいえ、ただ身体を動かしていればいいわけではなくて、やはり、楽しいことでないと夢中になれません。なので小学校の下校のときには、ただ歩いて家に帰るだけではつまらないので、鬼ごっこをしたりして楽しむわけです。
こういったことは子どもに限らず、大人にもあてはまることです。普段の生活も単調だと楽しくないので、人は年齢に関係なくいくつになっても夢中になれることを探すのだと思います。
そして、夢中になれることを見つけて、夢中になって生きていけるようになればなるほど、生きているという実感を得られるようになるものです。
もちろん、夢中になっているときに「ああ、俺は今生きている!!」と考えることはありませんが、心のずっと奥の方では、そういった実感を感じていることでしょう。
そういった意味でも、「自分はこれをするために生まれてきたんだ」というような自分にとって核心となる「喜び」を見つけることができたなら、人生がどんどん楽しくなっていくものです。
「喜び」を見つけられないと苦しい
もし人の本能に、何か楽しいことを見つけて夢中になって生きる、ということが組み込まれているとしたら、その対象を見つけられないということは苦痛でしかありません。
何をやっても楽しくない、何をやっても面白くないと感じながら生きていると、きっと人生が嫌になってしまうことでしょう。そういった意味でも、一日の大半の時間を費やす仕事に面白味がなければ、生きることも辛くなってしまうことでしょう。
また、楽しいと感じないだけでなく、職場の人間関係が上手くいかなかったりすると、苦痛の上塗りでしかありません。もし、そういった環境に今自分がいると感じたなら、すぐにやめた方がいいのではないかと思います。というのも、一日の長い時間を苦痛で過ごすことは、楽しいことに夢中になって生きるという人間の本能に逆らうことになるからです。
こちらは、ウィキペディアの「アドラー心理学」の目的論に書かれている文章ですが、心理学者のアドラーも同じようなことをいっています。
このアドラーの目的論の面白い点は、この引用の前半部分の「個人の悩みは、過去に起因するのではなく、未来をどうしたいという目的に起因して行動を選択している」というところです。
この部分がなぜ面白いかというと、たとえば結果論で考えるなら、今、悩みがあるのは過去の選択の誤りが原因だと考えますが、目的論に従えば、今、悩みがあるというのは「自分はこうなりたい」、「こうして生きていきたい」と思っていることとズレが生じているからだというのです。
つまり、アドラーは本来あるべき自分の未来と今に食い違いが生じているから悩みが生まれているといっているのです。
こういった解釈は、どちらかというと心理学というより、人は人生の目的を持って生まれてきているという運命論的な視点で語られるようにも感じます。
哲学者のヴィトゲンシュタインは「別なルールで考えろ」という言葉を残していたりしますが、その根拠はアドラーと一緒だったりします。
ヴィトゲンシュタインは、自分にとってふさわしい道であれば、そこには障碍は存在しないといいます。
おそらくアドラーも同じような考えを持っていて、煩わしいことがあるなら、そこから離れて、歩みたい人生に向かって積極的に生きなさい、といっているように思います。
とはいえ、人生を賭けてやっていきたいと思えるほどに夢中になれることを見つけることは大変だったりします。また、そういった対象が見つからないと人生そのものが苦痛に感じてしまいます。
では、どうすれば自分の人生の目的となるような夢中になれることを見つけられるようになるかというと、先ほどの千賀さんの本にアイデアが書かれているので紹介します。
千賀さんのこの文章を私なりに解説すると次のようになります。
快と感じる行為は、人の脳の働きをよくしてくれるものであるため、自然と、よいひらめきも浮かぶようになっていいきます。そして、そのひらめきに従って生きていけば、やがて人生の目的にたどりつくことができるようになるでしょう。
人生の目的としての「喜び」が自分軸になる
自分にとっての人生の目的を見つけられるようになると、人生がものすごく楽になります。なぜかというと、その目的に向かってただ生きていけばいいだけだからです。
人生の目的とは、楽しくて夢中になれることをすることなので、この楽しくて夢中になれることを見つけることができれば目的達成です。なので、毎日をその目的にしたがって、夢中になって楽しんでいればいいだけになります。
また、この夢中になって楽しむということが、いわゆる自分軸になります。自分軸とは自分の生き方の軸であるため、何かしらの判断を下す基準といってもいいでしょう。そこで夢中になって楽しむということを基準にするならば、楽しことはするし、楽しくないことはしないという判断で生きていけばよくなるので、生き方そのものがシンプルになっていきます。
さらに、楽しいことをしていると、自然な形で「次はこうしよう」とか、「こうなりたい」というような思いも浮かんでくるために、その目的を達成するための行動もとれるようになっていきます。
そうやって楽しいことを夢中いなってしていると、自然と目的が達成されてしまうので、最終的には、目的を立てる必要もなくなり、ただ楽しみながら、運まかせ天まかせで生きられるようになっていきます。
これが今回のテーマである「喜び」で生きるという粋な生き方になります。
楽しいことをしていると自己肯定感が生まれる
楽しいことをしていると我を忘れてしまいますが、この我を忘れられるようなことが、「自分はできるんだ」という自己肯定感や自己効力感を育む原因となります。
その一方で、嫌と感じることつまらないと感じているときほど、自分の存在を強く感じさせますが、自己肯定感や自己効力感を得ることはできません。
こういった自分を忘れることができるとポジティブになり、自分を強く感じるような状況になるとネガティブになってしまうという、不思議な現象が起きてしまうことに興味深さを感じたりします。
いずれにせよ、大人になっても、小学生の休み時間のように楽しいことに夢中になって生きていけるようになると、それだけで人生の目的は達成できたといってもいいでしょう。こういった状況になることができると、あとは、その先にある偶然性を楽しんでいけばいいだけだったりします。
今回は、千賀さんのタオの法則という老子の本を紹介させて貰いましたが、これまでの日本の歴史を振り返ると、儒教の要素が強く孔子的な生き方が主流だったと思います。しかし、これからは、孔子の対極の存在ともいえる老子的な生き方が主流となっていくように思います。
そこで次回は、この老子的生き方が、これから先の主流となるということを書いていきたいと思います。
これからは、ゆるく楽しく夢中になって生きる、そんな感じで人生を楽しめる時代がくるのではないかと思います。