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指紋(ショート)

 数十年ぶりに刑務所から出ると世の中は様変わりしていた。
 車が空を飛んでいたり、アンドロイドが普通に歩いていたりして唖然とする。
「おつとめご苦労さん。」
 門の前で古い友人が待っていた。
「とんでもねえ世の中だな。」
「こんなん序の口よ。まずは飯でも食おう。」
 無人運転のバスに乗り込む直前、友人が青白く光る小さなモニターに手のひらをかざすと「ピポン」と軽快な音がした。新時代のマナーか何かかと思ってまねすると、けたたましくブザーが鳴った。
「何なんだこれは。」
「そうか。さてはお前、まだ指紋を登録してねえな。今の世の中、支払いも手続きも全部生体認証ってやつよ。」
 聞くと、今や指紋を銀行や行政機関に登録すればそれで万事滞りなく済むらしい。もう現金や身分証を持ち歩く人間などいないようだ。
「でも俺、指紋ないけど。」
 空き巣や強盗を生業にしていた俺は大昔に薬剤で両手の指紋を消し去ってしまった。
「まあまあ、何とかなるだろうよ。」
 その後、何ともならない日々が続いた。
 電車やバスはおろか、どの店も指紋認証で入店するのが大前提になっていて、俺は一人では何もできない。嫌々役所に行ったが、1日中窓口をたらいまわしにされ、挙句の果てに医療機関で指紋を復元しろと言う。病院に行こうにも例のブザーが鳴り響く。事情を話しても、俺の経歴を知ると皆一様に冷たく、「うちでは対応できない。」と門前払いされるばかりだった。
 俺は友人に泣きついた。
「なるほど。非合法だが、奥の手がある。」
「指紋が手に入るなら何だって良い。」
 友人の紹介で、廃墟のようなビルの地下にある診療所に向かった。自動ドアが開いた先に指紋センサーがないだけでほっとした。
「あんたの今ある手を切断して、他人の手を移植する。」
 医者の説明を受けて悩んだが、もうこれ以外に手はない。
「ちなみに、手の元の持ち主っていうのは。」
 医者は答えなかった。まあいい。指紋さえ手に入ればそれで良いのだ。
 新しい手は3日で馴染み、自由に動かせるようになった。手術痕も全く分からない。医療の進化も目覚ましい。
 ビルを出ると、刑務所を出たときよりも清々しい気分だった。俺は最初に失敗したバスに再挑戦することにした。手に汗を握りながらセンサーにかざす。
 ブザーが鳴った。しかも、以前より何倍も大きい。
「な、なんで。」
 焦っていると、警察がやって来た。
「お、おまわりさん。大変なんですセンサーの故障のようで。」
 警察官は問答無用で俺の両手に手錠をはめた。
「指紋が一致した。殺人罪で逮捕する。」
「なんですって。」
「あんなにべたべた部屋に指紋を残しておきながら、よくバスなんて使えたものだな。」
「ち、違います、それは俺の指紋じゃないんだ。」
「その手は食わん。法廷で同じことを言うんだな。」
 連行される中、どうせ汚れた手なら、自分で汚した手を大事にしておけば良かったと後悔した。

(1192字)

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