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プーシキンに対するヴァンダリズム

ロシアの新聞のサイトからちょっとした記事を紹介するシリーズです。
またまた『文学新聞』から、今回はようやく『文学新聞』らしい(?)話題を。
まずは読んでいただきたい。

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プーシキンの文化遺産の破壊者たち

この(表題の)プロジェクトは、ア・エス・プーシキンの記念日、すなわち詩人の没後186年忌に向けて準備されたものだ(括弧内は訳者の補足。以下同じ)。(ユーチューブの)動画には、ロシアの天才と偉大なロシア文化のシンボルであり、全世界の文学と芸術に影響を与えた著作の作者であるアレクサンドル・プーシキンの記念碑、胸像及び記念プレートの破壊の記録が映し出されている。

プーシキンの作品は、200を超える言語に翻訳されている。世界中の50か国に設置された詩人の記念碑や胸像は670以上に及ぶ。昨年は、ソウルのサイバー大学の構内に、アルメニアのプーシキン峠に、そしてモスクワではМГИМОエムゲーイーエムオー(モスクワ国際関係大学)の友情の小径に、新たなモニュメントが現われた。

だが、そのような中、民族主義的な熱狂に駆られたウクライナ政権が、文化の偉大なるシンボルに対する計画的で残虐な迫害である「プーシキン排斥運動デプーシキニザーツィヤ」を野放しにしているのを、憤らずして見過ごすことはできない。

現代のプーシキン記念碑の殺害者たちは、(決闘で詩人に致命傷を負わせた)ダンテスよりもはるかに卑劣である。彼らは、自分たちが殺そうとする者の正体をよく理解している。処罰されないのをよいことに喜んで天才を愚弄するようなならず者たちは、誰一人として、名誉のために決闘におもむくような度胸のない者である。彼らは、死後186年たってさえプーシキンを怖れ、おどおどと記念碑を取り外すのが関の山であって、詩人自身が、人間の手が及ばぬような最も重要な記念碑を自ら打ち建てたのだということを、理解する力もないのだ。彼らがどんなに自分たちの甚だしい時代錯誤の振る舞いにのぼせ上ろうとも、いずれにせよ、プーシキンへと至る「民衆の小径は覆い隠されることがない」(プーシキンの詩句からの引用)。その小径は、いわゆる「ウクライナ」の領土にあっても同じことだ。

歴史はダンテスを断罪した。「骨の髄までロシア人」であり、プーシキンを崇拝していた彼の娘のレオーナでさえ、天才を殺した父を非難する声を上げた。今日の文化遺産の破壊者たちに対しても、遅かれ早かれ、運命が罰を下すことは疑いの余地がない。さしあたり、私たちがなすことは、「プーシキン排斥運動」の記録を見ていただくことだが、悲しいことに、その記録こそが、プーシキンの次のような言葉の正しさを裏付けたのだ。「先祖の記憶を敬わぬことは、粗暴さと不道徳の最初の徴候しるしである」。

『文学新聞』2023.2.12(全文訳)

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ロシア近代文学の創始者と言われる詩人・小説家のプーシキンは、1837年2月10日(旧暦1月29日)に37歳の若さで亡くなった。
文学新聞のサイトには、「ウクライナにおけるプーシキン排斥運動デプーシキニザーツィヤ」と題するユーチューブ動画へのリンクが貼られていて、記事と合わせて、ウクライナ領内で行われているプーシキンの記念碑の破壊行為を告発する内容となっている。
(記事中のデプーシキニザーツィヤという語は、あえてウクライナ語のアルファベットで表記されている。)


この記事に対しては、コメントを記すことが難しいと感じる。
ロシア文学史上の天才を記念した歴史文化遺産の破壊者を誉めようとは思わないし、その行為を正当化できるとも思わない。
しかし、そのような蛮行がどうして引き起こされたのか、ということも考えなければならない。

ウクライナ民族は、これまでの長い歴史を通じて、ロシアを始め周辺諸国・諸民族から繰り返し侵略行為を受けてきた。それら諸国・諸民族との絶えざるあつれきの中で、自主・独立を悲願として、民族としてのアイデンティティを護り育ててきたのだろう。
そして、1991年のソビエト連邦の解体とともに、ウクライナはようやく、名実ともに主権国家としての独立を成し遂げた。

ウクライナという地名は、スラブ語で「辺境」を意味する「クライ」に由来するようだ。
一般的には、主としてロシア、ウクライナ、ベラルーシの各民族が一体となって東スラブ人を構成するとされる。
だが、東スラブの中心はあくまでロシアであり、ウクライナはその名称が表すとおりロシアの辺境に過ぎない……おそらく、帝政ロシアの時代から、多くのロシア人にとって、そのような無意識の思い込みがあったのではないだろうか?
そこに、ロシア人とウクライナ人との間の潜在的な、時には明確な意識の齟齬そごのようなもの、流行りの言葉で言えば根深い「分断」の芽があったと言えないだろうか?

プーシキンの記念碑の破壊行為は、直接的には、ロシアの武力侵攻に対する抗議活動であるだろうが、一面では、そのような古くからくすぶっていた民族間の「分断」の芽が表面化したものとも考えられる。

とはいえ、ウクライナに住んでいるのはウクライナ人だけではない。
外務省のサイトによれば、ウクライナの民族構成は、ウクライナ人77.8%に対してロシア人17.3%とされる(2001年国勢調査)。
そして、プーシキンは、ウクライナに住む多くのロシア人や、またウクライナ人にとっても愛すべき偉大な詩人であったはずだ。だからこそ、ウクライナ領内のいたるところにプーシキンをたたえる記念碑があったのだろう。

今回のロシアによる残虐な侵攻によって、ウクライナでは、きっとウクライナ人と同様に、あるいはそれ以上に、ロシア系住民も苦しんでいるだろう。
ウクライナにあっては、ウクライナ人もロシア人も、ともにばかげた戦争の被害者なのだ。

ロシア文化に対する排斥運動が、ウクライナにおける民族間の分断をさらに深めることになりませんように!
両民族どうしが互いの歴史・文化そしてアイデンティティを尊重し合えるような日が一日も早く戻ってきますように!
そのように祈らずにいられない。




※タイトル画像は、ロシアの画家オレスト・キプレンスキーの「アレクサンドル・プーシキンの肖像(部分)」(1827)


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