
#110 賢治トシ 永訣の朝101年
101年前の今日、宮沢賢治の妹、宮澤トシが24才の若さで亡くなりました。
1898(明治31)年11月5日に、現在の岩手県花巻市で生まれたトシは、 1922(大正11)年11月27日に亡くなっています。
賢治とトシは、父・宮澤政次郎と母・イチの子として生まれ、賢治が長男、次に生まれたトシが長女で、2才の年の差です。
賢治にとってトシはすぐ下の妹で仲も良く、お互いに大きな影響を与えあったと思われ、賢治作品には、トシがモデルと言われる作品も多くあります。「銀河鉄道の夜」の「カンパネルラ」のモデルの1人はトシ、ジョバンニのモデルは賢治自身とも言われ、トシは賢治にとって最重要人物の一人です。
また、賢治の有名な作品である「永訣の朝」「無声慟哭」などは、トシの死がテーマと思われます。「青森挽歌」「オホーツク挽歌」などの作品も、賢治が、亡くなったトシの魂を探しながら、北海道・樺太へ向けて旅する作品と思われ、「青森挽歌」の中には「銀河鉄道の夜」を思わせるようなイメージも登場します。
○ トシの学生時代
賢治の妹・トシは、子供の頃から成績優秀で、1911(明治44)年に、開校したばかりの花巻高等女学校(現在の花巻南高校)へ入学します。トシは花巻高等女学校の第1回入学式に出席しますが、1・2年生が同時に入学したため、1年生だったトシは2回生となります。
そして、高等女学校でも常に成績優秀だったトシは、卒業後の1915(大正4)年に、東京の日本女子大学家政学部予科1年生となり、学生寮である「責善寮」へ入ります。
日本女子大学校は、クリスチャンの「成瀬仁蔵」や、「広岡浅子」などによって設立された大学で、広岡浅子はN H Kの朝の連続ドラマ「あさが来た」のモデルとしても知られる人物です。
なお、宮沢賢治・トシと同じく花巻にルーツを持つクリスチャンの「新渡戸稲造」は、成瀬仁蔵を中心に作られた「帰一協会」の会員でした。また、日本女子大学第6代総長の「上代たの」は、日本女子大学卒業後、新渡戸稲造の紹介でアメリカへ留学し、留学から帰国後の1917(大正6)年に、トシが在学していた日本女子大学の教授となっています。
キリスト教系の大学に進学したトシは、地元・花巻の偉人でクリスチャンでもある新渡戸稲造の人脈と、不思議なつながりを持っています。
○ 大学でのトシ
大学でのトシは、常に成績は優秀で、大学創立者でクリスチャンの成瀬仁蔵の教育からも影響を受けたようです。
トシは大学で行われていた「既存宗教にとらわれない宗教教育」などからも影響を受け、自らの信仰について考えていました。大学設立者の成瀬が影響を受けたとされる、アメリカの思想家ウィリアム・ジェイムズの思想からの影響などもあったと思われます。
トシが亡くなった後には、トシの署名が入ったアメリカの思想家 エマーソンの本が見つかり、在学中の日本女子大学では、賢治が影響を受けたとされるインドの思想家 タゴールの講演会が行われています。
トシが国内だけはなく世界の思想家からも影響を受け、そしてトシと賢治が影響を与えあい、さらに賢治の作品が受けた影響についても、興味深いものがあります。
トシは卒業前に病に倒れ、入院後、卒業式を待たずに、花巻に帰ることとなりますが、成績優秀であったことから、大学の卒業が認められました。
トシは、大学卒業後の1920(大正9)年頃に、「自省録」という、自分の過去を振り返るノートを残していますが、これは花巻でのある事件のショックも影響していると思われます。
○ トシ東京進学の背景
賢治の妹・トシが東京の日本女子大学へ進学した理由には、花巻高等女学校時代、地元の新聞記事に、トシと教師の関係がゴシップ記事として登場したことが影響したとも言われています。
当時の新聞には政治的な対立をあおるような内容が書かれていて、事実かどうかもわからない内容も、おもしろおかしく書かれていたようです。
普通の高校生であったはずのトシの記事が新聞に載った背景には、宮澤家があった地域が支持していた政友会、隣町が支持していた立憲同志会との激しい対立があり、宮澤家の側と対立する新聞からの攻撃対象として、トシが標的になったのではないか、とも言われています。
なお、宮澤家があった地域が支持していたと言われる政友会は、岩手出身で、後に日本初の本格的政党内閣を作った、第19代内閣総理大臣の原敬がリーダーを務めていた政党で、賢治作品にも「政友会」という言葉が登場する作品があります。
○ トシの死
大学卒業後、花巻に戻ったトシは、病気の療養生活に入り、病気が回復した1920(大正9)年9月からは、母校の花巻高等女学校で後輩達を教えていました。しかし、翌年の1921(大正10)年6月に再び病に倒れます。
トシが病に倒れた時東京に家出していた賢治は花巻に戻ります。賢治はその後、1921(大正10)年12月から、花巻農学校の教諭となり、トシの看病も手伝います。
翌年の1922(大正11)年7月には、トシは、花巻市内にあった宮沢家の別宅に移りますが、この別宅は、後に賢治が羅須地人協会の活動を行なった場所でした。
その年の11月19日に、トシは宮澤家の実家に戻り、11月27日夜に亡くなりました。24年の生涯でした。
○ トシの死と宮沢賢治作品
賢治の最大の理解者の1人でもある、トシの死が賢治に与えた影響は、とても大きかったと思われ、「銀河鉄道の夜」「永訣の朝」「無声慟哭」「青森挽歌」「オホーツク挽歌」など、多くの作品に、トシの死から影響が感じられます。
「青森挽歌」「オホーツク挽歌」などでは、賢治が、この世からいなくなってしまったトシの魂を探しているような様子も描かれ、現世と異世界をさまよう鬼気迫るような作品となっており、トシを失った賢治の、尋常ではない精神状態も感じられます。
賢治作品を読み解く上で、妹・トシは欠かすことができない存在の1人です。
(終)
2023(令和5)年11月27日(月)