#69 エミリィと賢治の相似形 その2【宮沢賢治とエミリィ・ディキンスン その7】
(続き)
〇 エミリィと賢治の相似形 その2
1886年にアメリカで亡くなったエミリィと、1896年に岩手で生まれた賢治には、当然のように、直接的な接点は全くありません。
しかし、二人をつなぐ糸を辿ると、二人を繋ぐ様々な人物が登場します。
新渡戸稲造や佐藤昌介(札幌農学校校長、花巻出身)、クラーク博士などの、花巻や札幌農学校(北海道帝国大学、現在の北大)、アマーストにゆかりの偉人達です。
賢治が生まれた花巻に関係が深い新渡戸稲造は、賢治に様々な影響を与えたのでは?と推測されます。新渡戸は賢治と同じ1933年に亡くなり、死の直前、戦争へと向かう日本とアメリカの間に立って苦悩しました。その姿は、賢治の晩年に重なるように思えます。
余談ですが、花巻出身で、札幌農学校校長及び北海道帝国大学総長を、40年以上の長きにわたって務めた佐藤昌介は、新渡戸と比べると無名ですが、亡くなる前、「我は人生に勝てり」という言葉を残しています。
また、佐藤の友人に、盛岡出身で首相となった・原敬がおり、原は、晩年には国政で大きな力を持ち、大きな力を持ったまま、暗殺により突然亡くなりました。原の晩年からは、賢治や新渡戸のような挫折感が感じられないのです。
そこでは、
「なぜ、賢治や新渡戸から挫折感のようなものが感じられ、佐藤や原からは感じられないのか?」
という疑問も湧いてくるのです。
なお、新渡戸稲造、佐藤昌介、原敬については、後でも触れる予定です。
本稿は、賢治とエミリィの疑問を巡る、長い長い迷いの跡で、特に、私自身の頭を整理するためのメモでもあります。
賢治とエミリィには直接的な関係がないことから、二人を取り巻く人間関係のつながりなど、外面的な事実から、二人が創作を通じて、成し得ようとしたものの共通点を挙げ、妄想しているに過ぎません。
よって、これから続いていく文章は、私の個人的な「妄想メモ」として、ご理解いただければ幸いです。
(続く)
2023(令和5)年9月28日(木)
(2023(令和5)年10月15日(日)修正)