シュッツ『現象学的社会学』「8章 相互作用関係」



***2014/9/21に公開したもの***


◯ Ⅰ 間主観性と理解 (Pp.146-175)

《他者・世界の自明性[Pp.146-8]》
 我々が自然的態度をとっているとき、他者の存在は疑問の余地のないものである[:146]。「世界」、「仲間の人間の身体的存在」「[他者の]意識生活」「コミュニケーションの可能性」「組織および文化の歴史的所与制」もまた自明のものとみなしている[:147-8]。日常生活の世界は、間主観的な世界 / 共通の世界 / 歴史的に与えられた世界である[:147]。
(***自然的態度において、自明だとされている という言い方に注目。疑おうと思えばいくらでも疑えるが、我々は日常生活においてそれをしようとはしないし、懐疑主義者も本気でそれを疑っているわけではない。)

《人は私的世界をもちながらも、共通のコミュニケーション環境に結びついている[Pp.148-150]》
 人間は「共通の環境」に結びつき、その環境によって「他者と結びついている」[:148-9]。この「共通のコミュニケーション環境」は、人間同士の「相互行為」と「同意」の関係に依存している[:149]。このコミュニケーションにおいて人々は「対象」ではなく「主体」として相互に作用しあっている。
 しかし、この「共通の環境」においても各主体は「私的世界」(当人にのみ根源的に与えられる独自な主観的環境) を保持していることも明らかである。つまり、「共通の環境」にいても、各人の知覚はその人の「ここ」「今」に由来する陰影が伴っている[:149]。
 主体はいくつかの時間次元に参加する。そのなかでも「客観的・間主観的時間」こそが、「共通のコミュニケーション環境」の前提となっている[:150]。なぜなら、① 客観的時間・空間は、主観的な空間的時間秩序において「『妥当な』現象として『現われる』」ものであり、② したがって客観的・間主観的なものとしての「今」においてある事物が私に与えられているのなら、それは「今後も」客観的・間主観的時間の流れにおいて他者にも同様に与えられるだろうからである[:150]。
(***我々は、それぞれに主観的で私的な空間・時間秩序をもっている。それでも、客観的で間主観的な時間・空間の存在を「妥当」なものとしていて、滅多に疑ったりしない [だから、他者と私の場所も、交換可能であることは証明できないにも関わらず、交換可能であると日常的には考えている]。また他者にも、ある事物が私と同じように与えられている[今後も与えられ続ける]と私は信じている。これはコミュニケーションが可能になるための前提である。)

《他者の行動と思考を、私は経験する[Pp.150-153]》
 日常生活においてわれわれは、「他者の行動と思考」を、(自己の思考を反省するときとは違って)「生き生きとした現在」において経験している[:150]。自己自身については反省を介して過去の姿を捉えることしかできない一方、他者については現在における主観性を捉えることができるのである[:151]。
 ここから「他者」を「生き生きとした現在において経験できる主観的な思考の流れ」と定義できる[:151]。また、ここから生まれる他我の同時性経験を「他我の一般定立」と呼ぶことにする[:151-2]。
(***私は他者と会話している。このときに私は他者の話を聞きながら、一言一段落ずつ、他者の思考を理解していく。つまり、他者の思考の流れを[他者よりも少し遅れながらも]「生き生きとした現在において」追っかけている。私のまなざしには、他者の思考の流れがそのまま映っている。これが同時性経験である。
 そして、私が他者の思考の流れを追えるのであれば、他者の思考の流れは、私の意識と同じ基本構造を持っているということが明らかである。おおよそ同じような思考や連関、時間構造などがなければ、他者の思考の流れを生き生きとした現在において追うことなどできないからである。くらいの意味か?違うか?)
(Q. シュッツの指摘通り、私は「他者の思考の流れ」をそのまま、今においてまなざすことができる。しかし、私はそれでも「思考の流れの基本構造」を理解できないことがありうる。会話の一つ一つを順を追って理解しているのに、相手の思考や連関、時間構造がまったく理解できないことは容易に想定できる。[おそらくこのとき、私は相手を狂人だと判断する。]
相手と私の意識構造がまったく異なっているように感じる狂気。「他者の思考の流れ」をまなざしても、「思考の流れの基本構造」が見えてこないという恐怖。)

 したがって、他我にとっての現在は「純粋の『われわれ領域』」である[:152]。
(***「私」とは反省によって現れるものである。したがって、他者に注目しているときには[同時に我を反省することはできないので]「私」は存在しない。つまり、我と汝が注目しあう関係とは、それぞれの「私」が存在しない状態であり、お互いを生き生きとした現在において経験しあう状態である。このような状態を、「純粋の『われわれ領域』」と表現している?)

《「他者理解」とは [Pp.153-169]》
 「他者理解」とは「仲間の人間についての自己の生きられた経験の解釈」ということである[:154]。「他者理解」において私は、相対している汝も「持続と意識」をもっているという事実を見出す[:154-5]。
 私は他者の身体の変化を知覚しているに過ぎない。だが、〈知覚された過程=他者の意識に属する生きられた経験〉とみなされるときに始めて、私的世界における意味付与を越えた他者の知覚が可能になる[:155]。汝の生きられた経験が私の生きられた経験と同時に存在することになる。これは他者の心のなかで実際に起こっていることを把握しようとする試みとも言い換えられる。外的な顕れが、[他者の心の]表示にすぎなくなるようなものの把握の仕方であり、他者の行為の〈目的動機 (なんのために?)〉〈理由動機 (なぜ?)〉を問う段階であるともいえる[:162]。
 ただし、もちろん私は他者の「意味連関」を完全に知ることはできない[:155-6]。したがって、「他者の生きられた経験とは、他者についてのわれわれ自身の生きられた経験によらなければ解釈できないものである」[:156]。これは注意が必要だ。
(***他者は生き、何かを経験している。「他者理解」とは、私が私の生きられた経験の内から、他者がいま生きて経験していることを解釈することである。これは解釈でしかないが、少なくとも他者の心の内を知ろうとしている点で、私は私的世界における意味付与を越えて他者を知覚し理解しようとしている。)

 さて、ここまででは[間接呈示の議論にあったように]身体を介した他者理解を論じてきた。しかし、われわれは直接経験できない「もっと疎遠な同時代の人々」や「歴史的に先行する人々」などなどについての知識をもち、その経験と意味連関を問うことができる[:156-7]。[こうした現前されない他者を理解する場合までもを含めて、他者の行動の解釈に用いられる自己解釈の作用についての考察を進めていく必要がある。]
(***「同時代の人々」や「歴史的に先行する人々」についての考察は、本書「第10章 間接的社会関係」に譲られている。)

 では、他者理解について詳細に検討していこう。まず考察のために、行為を二種類に分ける[:163]。
① コミュニケーションの意図なしに行われる他者の行為を理解する場合。たとえば木を切るという行為をしている人の心のなかでなにが起こっているかを、私はどのようにして知りうるのか。
② コミュニケーションの意図がある場合 (他者の用いる記号を解釈するという次元を含む場合)。記号を用いて
いる他者の心のなかでなにが起こっているかを、私はどのようにして知りうるのか。

 ①の場合。
 はじめに、自分ならその行為をどのように行うのかを想像。実際にそうしている自分を想像することができる。このとき、他者の目標をあたかも自分の目標であるかのように投企・遂行する自己を想像していることになる[:163-4]。われわれは「自己を行為者の位置に置き、自己の生きられた経験を行為者の生きられた経験とみなしている」[:164] 。
 ただし、観察者が他者の身体運動から推論しうるのは、けっきょく身体運動として現れた行為の経過だけである[:166]。そこで、観察者は「他のデータ」[他者の過去や、他者の現在の計画全体についての情報など]を持つことで信頼できる解釈を導き出すことが求められる。「被観察者の主観的経験の適切なモデルを構成しようと思えば、こうしたより広い連関が必要とされるのである。(…) 自分が見た他者の行為について不適切な解釈を避けたいと思うなら、私は、その特定の人物についての過去の経験からすればその行為を意味あるものにするような意味連関をすべて『もっている』必要がある」[:166-7]。

 次に②の場合。
 まず、「表現」行為とは、「行為者が自己の意識内容を外に投影 (nach aussen zu projizieren) しようとしている行為」であると定義しよう[:167]。表現には、「誰かが何かを認めるであろう」という目的動機・投企が伴う。そして、「表現行為」は「すべて記号の使用を含む」[:169]。
(***表現行為の理解についての考察はここで途切れているように見えるが、〈相互行為における他者の動機の理解〉についての考察という形で、ゆるやかに続いている?)

《他者の動機を理解する[Pp.169-173]》
 理解にはさまざまな程度がある。そもそも他者の動機を完全に理解することができるのは、私と他者は同一人物であるときくらいのものである。理解するといっても、「われわれは他者の行為を類型的動機―およびこれにかかわる類型的状況、類型的目標、類型的手段等―に還元できればそれで十分なのである」[:170]。
 他者についての私の知識にもさまざまな程度がある。親密な人もいれば、通りすがりの人もいる。そして、仮に通りすがりのほとんど見知らぬ人であっても外国の政治家であっても、その人の行為の動機を考え論じることは可能だ。人間行為の理解のためにも「そうした行為を類型的状況で生じた類型的行為として説明できるような類型的行為者の類型的動機が見つかればそれで十分である」[:170-1]。
 こうした理解の前提には、「同じ目的動機に方向づけられているとすれば自分も類似の行為を行うであろう」と想像できるということがある[:171]。

 さて、ここまでは孤立したひとりの行為者の態度をただ観察してきた。次に「他者とともに」や「他者のために」ある動機をもって行われるような行為 (相互作用を含む社会的行為) の問題にも触れておこう。相互作用の行為者はどのような動機をもって行為しているのだろうか。
① 社会的行為は他我の身体的存在に方向づけられる
② 社会的行為は「自己の行為によって引き起こせると期待している他者の行為にも方向づけられ」る[:172]。私は、他者が私の行為を理解したうえで、次にその理解が他者の反応を導くであろうと想像する。そのとき私は、自身の行為の目的動機が、他者の反応の理由動機になるであろうと予測していることになる。「こうした間主観的な動機連関があらゆる社会関係の原型なのである」[:172]。

 たとえば、〈私があなたに質問する〉場合。私が質問を発したときすでに、私は〈あなたが答えるだろう〉ということを計算に入れている。このとき、「質問は返答の理由動機」(質問されたから答える) であり、「返答は質問の目的動機」(答えをもらうために質問する) であるといえる[:172]。[それぞれの主体がそれぞれの動機をもつということで、「間主観的な動機連関」という言葉が当てはまる。]この私の動機と他者の動機との相互関係は、私が繰り返しテストし経験してきたものである[172-3]。そしてこの相互関係こそが、あらゆる社会関係の原型である[:172]。

《コミュニケーションを不可能にしかねない他者と私のズレを、常識的思考が見えなくする[Pp.173-175]》
 我々は「同じ」対象でも私と他者で違った意味を持つということを自明だと考えている[:173]。常識的思考はこのパースペクティブの相違を、二つの基礎的理念化によって克服する[:174]。
① 観点の互換性の理念化:他者の位置に立てば他者と同じ類型性において対象をみることができるという仮定。
② 有意性体系の一致の理念化:パースペクティブの相違は、双方の目的にとってとくに有意なものではないという仮定。我々は双方が同じ仕方で共通な対象やその特徴を選び出し解釈しているという仮定。

 この二つの理念化は「視点の相互性の一般定立」を構成する。[それは常識的思考による仮定にすぎないが、日常生活において誰もがそれを疑わない]。この一般定立によって、私は私が自明と見なす世界の部分が、他者全般にとって自明なものであると仮定する。このようにして「対象およびその諸側面」は誰もが知っている、客観的で匿名的なものだと私は考えるようになる[:175]。
(Q. P.175の最後5行くらい。以上のようにまとめたが、読解が不安。)


◯Ⅱ われわれ関係 (Pp.175-189)

《「対面状況」の場合のわれわれ関係[Pp.175-181]》
 「他者が私と空間および時間を共有しているとき、私はこの他者を直接的に経験することができる」[:175]。この状況を「対面状況」と呼ぶ。ここでは「意識の流れの同時性」と「空間的な直接性」が前提となっている[:176]。
 そして、対面状況の参加者は「相手[の存在]を志向的に意識している」。これを「汝志向 (Thou-oriented)」と呼ぶことにする[:176]。
 汝志向とは第一に、私が他者を生きた人間として、[意識的に判断するよりも前に]とらえる作用の志向性である[:176-7]。また、これは「他者の存在」に向けられたものであり、たとえば「他者の心のなかで起こっていること」の把握を意味するものではない。他者が純粋にそこに存在することに向けられているのである[:177]。
 「だが、『純粋な』汝志向とは、形式的概念、知的構成物、フッサールの言う『理念的極限』であり、われわれは、現実の生活においては、このような他者の『純粋な存在』を経験するわけではなく、むしろ個人的な性質や特徴をもった現実の人間に出会うのである。したがって、日常生活においてみられる汝志向は決して『純粋な』汝志向ではなく、多少とも顕在化し、内容を確定された汝志向だといえる」[:177]。

 汝志向は一方的な場合も相互的な場合もありうる[:178]。そこで、対面状況の参加者のように、互いに汝志向を持っている関係を「純粋なわれわれ関係」と呼ぶことにする。もちろん「純粋なわれわれ関係」もまた極限概念である。
 「私と汝が鳥が飛んでいるのを見ているとしよう。(…) われわれは双方の生きられた経験が同じかどうかに答えることはできない。(…) だが、鳥が飛んでいる間、私と汝は『一緒に年を経ていた』のであり、その間われわれの経験は同時に流れていたのである」[:178]。
 さて、このとき私が「私と汝、つまりわれわれは鳥の飛翔を見ていた」と述べたとする。このとき私は、汝の主観的経験の内容や経験の構造化などについて何かを知っていると主張しているのでは決してない。私と汝の経験の間に「一般的な対応がみられるという以上の主張を行っているわけではない」のである[:179]。そして、私が他者についてもつ直接的経験や同時代の人々について持つ知識の根源的妥当性は、こうした基本的関係に由来している[:179]。
 次に会話を例にしてみよう。私が「話をしている汝の心のなかで起こっていること」を把握しよう (すなわち「他者理解」しよう) としたとする。このとき私は「われわれ関係」を前提とすることで、「汝の主観的意味連関を生きることができる」[:180]。「私と汝が相互にこうした同時性を経験し、一緒に年を経ている間、つまりわれわれが一緒にその同時性を生きている間―またそのかぎりにおいてのみ―われわれは互いに相手の主観的意味連関を生きている」ということになる[:180]。
(***二つの例の違いについて。鳥を見ている例は、コミュニケーションの意図のない例。会話の場合、コミュニケーションの意図のある例になっている。)
(Q.「客観的知識は、われわれ関係に注意を向けることによって拡大される」[:180-1]とはどのような意味か。他者についての私の経験はわれわれ関係に由来するから、われわれ関係における経験を解釈することでしか他者全般についての知識を得ることができない、くらいの意味?)

《われわれ関係そのものをまなざす / 対面関係の特徴について[Pp.181-189]》
 あらゆる他者理解において「われわれ関係」が前提とされているならば、「われわれ」[自己の意識と汝の意識の平行している流れ]は「持続の流れとしての私の意識の流れに似ている」[:181] 。
 さて、われわれ関係が「われわれの共通の意識の流れのなかで生き」ることであるならば、[自己に対する反省のように]その流れそのものについて思考しようとすることもまた可能である。そのとき、私はある程度相手に対して距離を取ること、すなわち「われわれ関係」そのものに注意を向けるために他者の存在に注意を向けることを止めること、「対面関係の外に出ること」が求められる[:181]。

 われわれ関係自体に目を向けてみると、われわれ関係は次の二つに分類できることがわかる。
① 純粋なわれわれ関係:他者の存在の相互把握。
② 対面関係 (具体的なわれわれ関係):[ただ相手の存在をそのままで把握するのではなく、]相手が私をどのように見ているのかに関する、特殊な知識にも注意が向けられる。

 ②の状態でなければ、社会関係を結ぶことは出来ない。①に留まっているわけにはいかない。われわれ関係の参加者は「純粋なわれわれ関係」を経験しているわけではない。それは極限概念でしかない[:183]。

 そして、対面関係は以下のような特徴をもつ。 
① 相互反射:ⅰ私は他者を見ている。そして私は、相手が私に伝えようとしている以上のことを捉えることができる[:184]。ⅱ私は「知識の蓄積」を携えて他者を捉えている。かつ、他者と向き合っているとき、その人についての知識は刻々と蓄えられていく[:185]。ⅲこうした「他者との出会い」は多様な意味連関のなかに秩序づけられる。……
 私は、他者も私のことを見て、以上のようなことを私同様に行っているということも考慮にいれる[:185]。この考慮によっても、他者に対する私の意図や行為は影響を被っている。「こうしたまなざしのからみあい、複雑な相互反射」が対面状況の特徴である[:185]。
② 「純粋なわれわれ関係」が反省的に捉えられることはなかった。それは観察されず生きられるものであった。「対面状況」はここから派生したものであり、その状況において私は、他者の投企や行為を直接まなざしている[:186]。
③ 対面状況においては、私と他者は「同じ環境」(「われわれの環境」) を持っている[:186]。同じ環境をもっているという仮定が対面状況において強化されることで、「自己の解釈図式と汝の解釈図式の適合性」が確認される[:186]。これはまた、「間主観的世界の根拠」にもなっていく[:187]。
④ 対面状況では相手への質問などによって解釈図式や解釈を確認できる。このようにして他者理解を修正できる[:187]。 

 対面状況は、お互いの〈自己の意識経験に注意を向ける仕方〉を変様させる[:188]。この特殊な注意変様によって相手をとらえるがゆえに、「私は誰かと相互作用を行うとき、常に、いくつかの純粋な理由動機または目的動機を――その特定の人間および人間一般についての私の過去の経験にもとづいて――その人において変わらないものとして自明視」[:188]することになる。
 他者の動機の特殊な開放性:予期。


◯Ⅲ 社会的観察 (Pp.190-6)

《われわれ関係ではない場合:相手が私に気づいていないままに、他者の行動を観察するとき[Pp.190-5]》

 社会的観察における汝志向は一方向的である[:190]。私は他者の身体が表示する「内的世界」を観察することで、他者の心のなかのできごとを知る。ただし、私は他者に気づかれてはいけないので、自己の経験と他者の経験の対応を検証することができない[:191]。複雑な相互反射も欠けている[:192]。
 そこで観察者は被観察者の動機の解釈を、次のような間接的方法で行う[:193]。
① 自己の記憶を参照し、行為の目的動機・理由動機の関係の一般的原理を取り出す。その原理が他者にも当てはまると仮定し、「自己を他者の位置に置くこと」によって他者の行為を解釈する。
② 被観察者の習慣的行動についての知識に頼り、目的動機・理由動機を推測する。たとえば被観察者が教授・裁判官・牧師などだと知れば、行為の解釈と動機の推測は容易になる。 *知識に沿って間違った解釈をしてしまうかも。
③ 被観察者についての有力な情報をもたない場合、行為の結果から目的動機を推論するしかない。このとき、結果は意図されたものだと仮定されることになる。 *飛躍の危険性が大きい。

 さらに、[被観察者個人の観察ではなく]ある社会関係を観察する場合[:194]。まず観察者の解釈図式は、その社会関係の参加者の解釈図式と同じではない。観察者は傍目八目ではあるが、参加者の目的動機を確実に知ることができないし、したがってもう一人の参加者の理由動機を知ることもできない[:194-5]。
(***飛躍の可能性が大きいにも関わらず、理念型の形成においてはこうした手段を採らざるをえない。)

《観察者の「無関心さ」[Pp.195-6]》

 観察者は相互反射に参加しない。これが観察者の「無関心さ」「公平さ」を作り上げる[:195]。観察者が当事者の利害とは関わらないためだ。しかし、これゆえに観察者は「双方の参加者の表にあらわれた行為の断片」しか捉えることができない[:195]。そして先述のような方法で解釈をする。このため「観察者の構成物は、相互作用の参加者が用いる構成物とは異なったものといえる」。




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