ルーマン『リスクの社会学』序文 メモ。


 観察範囲を拡大するのではなく、全体社会が逸脱・事故・予期せぬ出来事をどのように説明し処理しているかを問う。その説明・処理には固有の秩序がある。それを明らかにすることには、ノーマルな秩序の形式を逆に照らし出す可能性と同時に、「自明ではない仕方での研ぎ澄まされた区別の能力」という形での批判的潜性力が潜んでいる 〘*もっと良い区別ができるよという意味なのだろうか?p.10-11ではベックがフランクフルト学派を刺激していることに触れた後、〈ノーマル/逸脱〉の区別の話へと移っていく〙。(:9-11)


 今日ではカタストロフィの可能性に人々が惹きつけられている。そして、それが「決定」によって引き起こされると観察されている点に今日の特徴がある。(:11-12)

 カタストロフィの合理的な計算は不可能。そして、リスクの計算の拒絶すら (拒絶するという決定を行っているという点で) リスクに満ちてしまう (=リスクについてのコミュニケーション自体が、リスクに満ちている)。(1) このようにカタストロフィは計算できない、(2) そしてリスクは決定から引き起こされると観察される。それゆえにリスクのコミュニケーションは道徳化可能なものになる。〘*たとえば「将来世代が~」という言葉が使うことで、カタストロフィを考慮しなければならない領域をどこまでも拡大しながら、技術を使う / 使わないという決定を非難するなど〙 (:12-13)

 このように道徳化された議論は、自然科学をその裏付けとしている。だからこそ社会学的に興味深い。道徳化された議論とは、全体社会が、「その時点で人を納得させる力を持つ災いのゼマンティク」(廃棄物の毒性、放射線……などの自然科学的知識) を用いて全体社会のノーマル性を反省している場面なのだから。(:13-14)

 道徳化された議論のなかで何が起こっているのかを明らかにするために、まずはリスク概念の精緻化を行っていく必要があるだろう〘*1章〙。そもそもリスク概念が全体社会システムのなかで重要視されているのは、「技術」による能力意識が、自然という領域を占領するとともに、全体社会の未来をますます「決定」に依存させているためである。

 ということで、「技術」「決定」の概念が重要なのだ。これらはいずれもコミュニケーションとして (のみ) 分析される。これは全体社会システムを起点して世界を観察することから導き出されることである。なお、当然本書もまた (1) この視点に則って特定のリスク概念を採用するという決定を行っているため、(2) そしてコミュニケーションの対象となるため、リスクを引き受けなければならない。(:14-16)




 

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