「いっそ世界中が不幸ならと願う僕がいる」 -さだまさし『遙かなるクリスマス』について。


 新春生さだで『遙かなるクリスマス』が歌われ、「いっそ世界中が不幸ならと願う僕がいる」という部分に触れられた。そこでふと以前書いたものを思い出したので、再度公開しておこうと思う。2015/11/18に公開したもの。安保法などで争った夏が過ぎたあとのものであった。


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 メリークリスマス。
 僕たちのための平和と 世の中の平和とが少しずつずれ始めている。


 近所のショッピングモールにクリスマスツリーが飾られはじめました。

 「戦争がなくなりますように」と登場人物たちが祈る子ども向けのアニメの画面上部に、パリのテロについての速報が表示されていました。

 ちょっとまえから、少しずつ、いろいろなことが “ずれ始めている” ということを感じます。そして、きっとこの違和感を放っておくと、あとあと「あのときにああしていたら」という形で後悔するのではないかという恐れがあります。

 「遙かなるクリスマス」で描かれるのは、第一に〈私たちの幸せ〉と〈戦場〉との断絶。この断絶ゆえに、「僕」は「いっそ世界中が不幸なら」と祈るのでしょう。世界中が不幸になれば、もちろん僕たちも不幸になる。そうすれば〈僕たちのための平和〉と〈世の中の平和〉との間で引き裂かれていく苦しみ、不幸な道端の子どもや死んでいく人々についてのニュースを前にしながら愛する君に電話するときに感じる苦しみは、きっと消えていくことになります。

 そして、これに反して第二に描かれるのが、〈私たちの幸せ〉と〈戦場〉との連続です。その奇妙な連続は、「子ども」を介することで生まれます。子どもを戦場に送ることになるかもしれないという可能性が、私たちの幸せに影を落とす。<君の幸せ>ばかりを願いながら、しかし目の前にある引き裂かれたものを放置していることで、君の子どもをいつか戦場に送ることになってしまうかもしれないという、不安。

 メリークリスマス。僕は胸に抱えた小さな 君への贈りものについて深く深く考えている。
 メリークリスマス。僕は君の子どもを戦場へ送るために、この贈りものを抱えているのだろうか。


 〈私たちの幸せ〉と〈戦場〉との隔絶、他方で〈君の幸せ〉と〈君の子どもを戦場に送ることになるかもしれない〉という連続。それらが与える漠然とした不安。この2つの間で、「僕」はクリスマスという日に白い雪のなか立ち尽くすのです。



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