奥村隆「理解の過少と過剰」


***2014/9/15に公開したもの***


 「コミュニケーションは原則的には不可能である、しかし実践的には不都合がない。つまり、彼[シュッツ]は、『理解』がどうしようもなく困難であることと、それがやすやすと過ぎていくことというふたつの側面を抜き出している」のであり、その側面を埋めるものが「常識的思考」であると説明している[奥村,1998:223]。もちろん、それは常識的思考に過ぎない。だから、われわれは他者理解やコミュニケーションの不可能性を疑おうとすればいくらでも疑うことができるはずだ。しかし、われわれはそれを滅多に疑わず〈自然的態度においてエポケー(疑念を停止)している〉。

 さて、当然ながら完全な他者理解などありえない。すると、他者による理解は、常に私にとって不十分なもの (過少なもの) でありうる。奥村はシュッツの論をこのように発展させたうえで、シュッツが指摘していない「理解の過少」の可能性を論じる。それは「他者理解」を放棄して、身体のレベルに照準したコミュニケーションを行ってしなう可能性である。

 理解は、シュッツが「他者理解」という言葉で表現したような、〈身体の挙動を越えたレベルの理解=他者の生きられた経験の理解〉へと向かうことも確かにあるかもしれない。しかし、当然「他者理解」がなされず、身体のレベルで物事がコミュニケート (接続) されてしまうこともありうるはずだ。暴力や性愛がその例であると奥村はいう。「シュッツの想定する、飛んでいる鳥を私の隣で眺めている他者。しかし、彼(女)は、次の瞬間、私の方に向き直り、私になぐりかかってくるかもしれない。あるいはナイフや銃で私に襲いかかってくるかもしれない。(…) 『身体』として出会うということは、『理解』=『わかりあう』関係をつくる最大限の可能性を開くことであるが、そこでは[他者理解を放棄して、相手を自分に従わせるために]『暴力』=『なぐりあう』関係の可能性も最大限に開かれる」[同上:228]。ここにおいて身体は何かを表示する記号ではなくて、一つの物質として他者に顕れている。「あるいは、私は『理解』を求めているのに、他者が私を『性愛』の対象としてしまうことがある。(…) 他者が勝手にこうした[「こころ」から「身体」への]スイッチの切り替えをするとき、それに気づいた人は、『こころ』を『理解』されるべき場面で自分の『身体』が照準されていることを、屈辱感と怒りをもって経験する」[同上:230]。

 そしてまた、「類型」としての理解にも、シュッツの指摘していない苦しみがある。シュッツの述べるとおり、理解はさまざまな「類型」を通じてなされる。しかし、その「類型」が当然〈差別〉を生む場合もある。このとき〈差別〉される私は、私の固有性を無視する他者の理解の過少さを嘆くことになろう。

 しかし、同時にわれわれはこの「理解の過少」に助けられているところがある。たとえば相手の心のすべてを理解してしまう / 自分の心のすべてを理解されてしまうとしたら、きっと私はもう他者と共にいることはできなくなる。また、他者の心を過剰に理解してしまったら、おそらく差別を止めさせることもできなくなる。「『差別』[すること]によってようやく彼が生きているということ、それを指摘されたら彼は深く傷つくだろうということ」、あるいは「あなたと彼の関係は壊れて、あなたは彼に深く傷つけられるだろう」ということを理解してしまうからだ[同上:240](そして実際に私たちは、他者の心に同調して差別や暴力を見過ごしてしまうことが往々にしてある)。「理解の過少」は暴力につながりうるが、「理解の過剰」もまた差別と暴力に結びつきうるのである。

 「どうやら私たちは『理解』のすばらしさはよく知っているが、『理解』が生む苦しみは (感じていても) あまり論じないのではないか。(…) 人がわかりすぎてしまったり、わかられすぎて苦しんでいるときにも、もっとわからなければ、もっとわかられなければと思い込み、かえって『理解の過剰』の苦しみを増幅するということが頻繁にあるのではないか」[同上:244]。その結果、他者のわからなさに苦しみ苛立ち「暴力」をふるい、あるいはわかる部分とだけで他者と付きあおうとして「差別」をしてしまったりする。しかし、理解の技法では、どうしても一緒にいられない他者もいる。「シュッツは、私たちの『社会』が『希望と怖れ』に満ちていることを指摘した。彼が描く人々は、そこから『希望』の方に、『理解』という技法によって『わかりあう』世界を構築する方向に、歩んでいく。それはすばらしい世界であり、私たちの『社会』はそのような技法である部分が形成されている。しかし、私たちは『社会』のすべてを、『他者』といる場所のすべてを、そのような技法で形成することはできない。そのことをはっきり知るとき、私たちは少し『理解』という技法から自由になることができるように思う」[同上:255]。




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