今年を振り返って。 - 2016年に書いたものたち


 今年読んだものについては大方書いたので、今度は少しばかり今年書いたものたちを振り返ってみたい。


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 すでに鍵をかけていたFC2ブログから、noteに本格的に移ったのが2016/1/14。修論を印刷所に出し終えてからだった。だから、そろそろ一年になる。

 noteのアクセス数の数え方が全然信用出来ないので参考程度の数字でしかないが、一応全体ビューは11万7千程度。ユニークアクセスで考えた場合この1/3程度になるのだろうか。


 ちなみに最も多く読まれた記事は「-初心者のための『プリティーリズム』シリーズ・『KING OF PRISM by PrettyRhythm』入門-」で、すべてをあわせると5万7千程度になる。目次へのアクセスが1万6千程度で、単独の記事としてはこれが最多アクセスであった。


 次点でアクセスが多かったのは「CRAFTWORK『さよならを教えて』レビュー (全体の構造)」で、1万程度。


 そしてその下にだいぶ下がるが「ライアーソフト『Forest』解釈・考察 -偶然を包括する必然の物語-」が来る。ちなみにアクセスは3,200ほどであった。



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 以上がそれなりに読まれた記事。ただ、読まれていないものも含めて今年はけっこうごちゃごちゃと書いたので、ここからはいくつか印象的な記事を取り上げつつ、今年一年で書いたものを振り返ってみたいと思う。ゲームとか、日常にあった出来事とか、谷山浩子とか、そんな感じ。


 まずnoteを開設してから最初に公開したのが「CRAFTWORK『さよならを教えて~comment te dire adieu~』が示す空白。」(2016/1/14) であった。これはいままでメモ程度に書き留めてきた発想が、ある日突然わりとシンプルな形でまとまったもの。発想としては上で挙げた「CRAFTWORK『さよならを教えて』レビュー (全体の構造)」(FC2ブログにて2011/2/27に公開) から変わっていない。「自己肯定のための自己否定」という言葉を明確化するために書いている。ただし、かつての記事が「離人症」や「防衛機制」といった、より心理学的な語彙を用いているのに対して、こちらではより形式を意識した (ドン・キホーテの陳腐な騎士道物語を意識した) 内容になっている。この5年間で、使う言葉が大きく変化したんだなぁ、としみじみする。

 ちなみに、「自己肯定のための自己否定」を、「否定されるためだけに用意された舞台」として捉え直すと、『Forest』と『さよならを教えて』などは案外近い位置にある。たとえば、「ライアーソフト『Forest』解釈・考察 -偶然を包括する必然の物語-」の追記部分。これらの関係については、先日改めて簡単にまとめた。


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 さて、本格的にnoteを利用しはじめた三日後、修論も提出しおえた折に突然書き始めたのが、一連の「-初心者のための『プリティーリズム』シリーズ・『KING OF PRISM by PrettyRhythm』入門-」(2016/1/17) であった。

 なんというか、たまにはこういうノリも良いかと思って、なるべく受けるように書いてみた。いわゆるテキストサイトのような古めかしいノリ。FC2でも一時期そういうノリで書いていたときもあったけど、今回ほどではなかった気がする。

 結果として多くの人に読んでもらえたし、キンプリのお祭り騒ぎの一端に参加できたので、とても楽しかった。自分のなかでもまだこういう人に笑ってもらえるようなものも書けるのかと少し安心したのを覚えてる。普段は本のまとめとかそんなものばかりだしね。

 日付を見ると6つの記事を2日間で書ききっている。なんというか、修論で追い詰められていたせいで文章作成スピードがめちゃくちゃ早かったんだなこの頃。……今思うと、修論審査終わってないんだから、こんなことしてないで報告準備しろよって感じだ。


 ……黒歴史にしかならないことはわかっているんだけど、同じようなノリでそのうちまた何か書きたい。


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 日常の出来事についても、いくつか書いてきた。

 最初に書いたのが「理解できないこと」(2016/1/21) で、死にかけの犬について。キンプリの記事の三日後にはこれを書いているのだから、自分でも自分がよくわからない。

 自分のなかで理解できなかった出来事が、大きな重さをもって自分のなかに居座ってしまうことはよくある。理解できなさゆえに、それは私の中に居座ってしまうのだ。「他者が持つ、死への苦しみ」はその最たるものであろう。そこには少なくとも二重の理解できなさがある。 (1) 他者の痛みという理解できないもの、(2) 死という理解できないもの。これらの前には、人は立ち尽くす他ない。だからせめて、言葉というものを用いて、理解出来なさをほぐしていきたいと私は思ってしまう。でも、(3) 犬は言葉を解さない。ペットの死というのは、こうした理解の不可能性に彩られている。

 そして、多くの場合、ペットは自宅で死を迎えることになる。だから、我々はその死と深く向き合わなくてはならなくなる。「理解したい」という思いが、「理解することができない」という現実に繰り返しぶつかりながら、ただ死が訪れるその瞬間まで、一緒にいて、苦しむ。ペットを飼うということには、やがて来るその時間を共に過ごすであろうことが、含まれている。


 だが、だからといってペットと過ごした時間が無意味になるわけではない。それを教えてくれるのが、映画ドキドキプリキュアだ。

 犬の死、親しい人の死を直接的に描きながら、この映画が示唆したのは、「過去は呪いにも糧にもなるということ」である。「過去は絆 (きずな/ほだし) である」と言いかえても良いかもしれない。「別れの記憶」は我々を過去に縛り付けるが、しかし「別れるまでに蓄積された記憶」があるからこそ前に進むことが出来る。そういうことを、この映画は描いている。

 なお、理解のできなさ (あるいは理解せずとも共にいることはできるということ) や、あるものは呪いにも糧にもなるということは、近年の女児アニメで繰り返し呈示されるテーマでもある。以下の記事はそうしたことを意識して書いた。また、(未だに独立した記事としてかけてはいないが、) プリティーリズム・レインボーライブやプリパラにもそういう要素がある。




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 さて、日常の出来事について、とくに解釈を加えたりせずに書いたものとして、ほかには以下のものがある。

 購入した古本に挟まれていた一枚の紙について書いたもの。このころは前後に小説もどきのものを書いていたこともあってか、内容よりもリズムを重視しているきらいがある。まぁたまにはこういうものも良いかもしれない。

 ちなみに小説もどきのもので公開してあるのは以下の二つ。これらの他には、かつて15分縛りで書いていたものがネット上にちらほら (→ 即興小説)。またなんか小説っぽいものも書いてみたいなぁ。

 「夢。」のほうは意外と気に入っている。誰もいない空間の不気味さを描くことを目標としながら、文のリズムや言葉選びのなかにも「違和感」を忍ばせたつもり (成功したかは知らんが)。ただし、誰もいない空間といったところで、「夢。」では「私」が存在している。いくら「私」という存在を多重化したり、視線をぶらしてみたり、本来「私」には見えないはずのものを見えるかのように書いてみたからといって、「私」が消去されるわけではない。だから、「練習」のほうでは、「私」すら存在しないなかで不気味さを描こうとした。冒頭で飽きて放置してしまったけど。


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 もうひとつ。つい最近も、日常の出来事について書いた。バスで、叩かれる子どもを見たときのことだ。

 あまりわかりやすい説明に飛びつかないほうが良いとは思いつつも、我慢できずに書いてしまった。正直、困惑とともに怒りも混じった、なんともいえない気持ちだった。それを文章にぶつけてしまったのだと思う。ちなみに、自分が住む街については、かつてその雑多さが好きであると以下の文章で書いたことがある。しかし、「雑多である」ということでこの街のすべてを肯定しようとすると、否定すべきものを否定できなくなってしまう。要するに、「雑多だから良い」と言ってしまうと、「なんでもアリ」になってしまう。この危険性に、以下の記事を書いたときにはまだちゃんと気がつけていなかったのだと思う。

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 以上が、日常に起こったこととかを書いた記事たちであった。

 他に今年書いたものといえば、谷山浩子さんに関する記事も多く書いた。これも少しまとめておきたい。

 まずは、谷山浩子の特色の一つである「暗く明るい」という側面について、紹介記事を書いた。なんだかんだ一番読まれているのがこれだったと思う。

 ただ、個人的には次の二つの記事が気に入っている。

 一つ目は「椅子」について。ここでは、谷山浩子の「空白を描く」能力に注目した。二つ目は「きみの時計がここにあるよ」を通じて、〈個〉と〈個〉の間に広がる深淵について書いた。どちらも自分のなかでは重要なテーマであり、そういうところにつながってくるからこそ、私は谷山浩子に惹かれたのだと思う。

 どちらも、これまで書こう書こうと思っていて、なかなか書くことができないテーマだった。谷山さんの想像力を媒介にしてようやく書けた。今年は、こういうものを書くことができたので収穫の多い年だったなと改めて思う。なお、空白を描き含むことについては以下の記事でも触れた。


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 さて、まだまだ書いたものはあるが、ここらへんで終わりにしておこう。

 結局、過去記事を書き直したものをあわせると、この一年で70以上の記事を書いてきたことになる。誰も読まないような文章をいったいなんでこんなに書いているのか、自分でも度々不思議に思う。ただ、よくわからないけれど「書きたい」と思う瞬間がくるから、書いている。たぶんブログではない場所で書いたものも併せると、ものすごい量を書いている (それにもかかわらず一向に文章が上達しないのは一体どういうことなのか)。それでもなお「書きたい」という気持ちが途絶えないのだから、もうなんかこれから先もこんな感じで書き続けることになる気がする。

 そして、書き続けてみるとわかることもある。FC2ブログを開設してからもう5,6年になってしまった。だから、もう5,6年間も、こんなくだらない文章を書いていることになる。5,6年もあれば、当然いろいろなものを書いてきた。書きつけてきた文章を見返してみると、変わっている部分と変わっていない部分があっておもしろい。自分では変わっていたつもりでも連続していたり、変わっていなかったつもりでも全く違うことを言っていたりする。自分はどこまでも自分だが、しかし自分でありながらも、自分ではないものにもなれるのだな、と思う。行ったり来たり戻ったりではあるが、どうやら少しずつ変わったり、迷っていたことをはっきり言葉にできるようになったりしているようなのだ。

 だから、ゆっくりとではあるが、書きつけることによって少しずつ足元を確認しながら、また違うことを考えられる自分になれればと思う。

 とにかく今年は、たくさん書いたから満足だ。




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