理解できないこと。

 犬を飼っていると、死について考える機会が多くなる。きっとこの犬の方が私よりも早く死ぬのだろうということを頻繁に意識してしまう。
 そして、苦しんでいる犬を見ていると、「理解できない」ことの恐ろしさが身に沁みる。この子はいったいなんで苦しんでいるのか、どこがどのくらい苦しいのか………そういったことを直接聞くことができない。それが辛い。目の前にある「苦しむ犬」という現実を、ただそのままに受け入れるしかない。そういうとき、私はわたしのなかに途方もない質量の感情が蓄積されていくのを感じる。苦しみを言葉にしてくれれば、あるいは言葉を交わすことができれば、つまり「理解」と呼びうるような何かを犬との間に成立させることに成功すれば、私はその大質量の感情をきっと私一人で抱えずに済む。すこしだけ和らげることができるのだ。
 しかし、実際には私は、諦めたようにただ「苦しむ犬」というものの前に立ち尽くす。吐瀉物を掃除し排泄物を処理して、撫でている。そういう時間が数週間続いたときがあった。
 私は、私のなかに沈殿してしまう大質量の感情を和らげるために、誰かと言葉を交わしていたい。自分勝手なのかもしれない。それでも、例えば誰かが死ぬとき、私は自分のためだけに、その死んでいく人にはできる限り最後まで話せる状態で居てほしいと切に願ってしまう。そんなことはありえないと知りながらも。私はわたしのなかに、私一人では抱えきれないほどの感情を抱え込みたくないし、その感情がただ「あきらめ」とか「納得」とかの形で単純化されていくのを待っていることにも耐えられないのだ。
 言葉を交わして、「理解」の糸口になるような言葉をもらって、感情を変換し、自分の物語の一部にしてしまいたい。それが出来ないことで、大質量の感情が語りによって解きほぐされないまま私の心のなかに残り続けてしまうことが、本当に怖い。

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