行為をどのように記述するか : 赤江達也「<ためらう>身体の政治学 - 内村鑑三不敬事件、あるいは国家の儀式空間と (集合的) 身体・論」


 ある勉強会で報告したもの。赤江達也「<ためらう>身体の政治学 − 内村鑑三不敬事件、あるいは国家の儀式空間と (集合的) 身体・論」(関東社会学会『年報社会学論集』17号 pp.1-12 2004年8月) という論文がとてもおもしろかったので、その内容をまとめたうえでコメントを書いてみた。この論文を通じて、歴史に限らず、「ある行為を記述すること」一般について考えてみたい。

 なお、真面目な勉強会ではないので、あまり固くない文章になっている。また、前の報告の内容を受けて、それにつなげる形でコメントを書いている。そのため、赤江論文から読み取れる以上のことが書かれたコメントになってしまっている点は注意。


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報告の目的

 「行為の可能性の空間」(そこで何を為すことが可能であり、何を為すことが不可能だったのか) という観点から行為者の行為を記述する方法・意義について論じ、「行為者の行為をどのように認識・記述するか」という問いについて考察する。


論文概要


1. はじめに
 本稿は、(1) 内村の立場に注目しながら内村鑑三不敬事件についての新たな解釈を提示し、(2) そこから「国家儀礼を可能にする具体的な空間」と「複数の身体の存在」に目を向ける社会学的な分析が、「国家と宗教」という思想史的な問題の構図に対して意味を持つということを示す。


2. 事件の空間 − 第一高等中学校の倫理講堂、1891年
 まずは、事件が起きた空間を確認しておく。(略)


3. 歴史的位置 − <80年代/90年代>の言説空間
 次に、それを事件足らしめた言説の空間を確認しておく。
 1880年代には、「宗教と国家」の関係は問題として認識されていなかった (宗教と国家の間には、多形的な関係を結ぶ可能性が存在していた)。
 しかし、1880年代末頃から不穏な空気が流れ出す。それは学校において「皇室の儀式」が行われるようになったことに関わるものであった。そうした<80年代/90年代>の境目のなかで内村鑑三不敬事件は起きる。
 その後1890年代には、キリスト教徒一般に対して「愛国心が欠けている」「不敬である」という批判が多くなげかけられるようになり、キリスト教徒は潜在的に「国体に反する」「不敬」な存在だとみなされるようになった。
 こうしたなか1890年代において内村のふるまいは、特権的な「意味」の舞台となっていく。


4. 信仰と愛国の閉域 − <90年代以降>の言説空間 (p.4)
 <90年代>において、キリスト教徒たちは内村の事件に対し、「天皇にまつわる儀礼は宗教的行為か否か」という構図の議論を繰り広げる (可拝論と非拝論)。可拝論はそこに問題は存在しないとして「宗教・対・国家」という問題の解消を目指し、非拝論は「宗教を侵害する国家」という構図を強調しつつ国家に対する宗教の自律性を主張する。そうしたなか、非拝論者植村は内村の「心術」を評価しつつ、その一貫性のなさを批判した。内村の<ためらい>に「信仰」を読み込むのは国体論者も同様である。
 こうして、非拝論者と国体論者はともに、(「宗教・対・国家」という構図のなかで) 内村のふるまいに「「愛国心」
とは相容れない (はずの) キリスト教徒の「信仰心」を読み込む」のである。このようにして内村の「内面」が<賞賛/非難>というわかりやすさのなかで語られ、そのわかりやすさゆえに内村のためらいは「大事件」となったのだ。


5. <ためらう>身体の場所 − 内村鑑三の反-立場 (p.6)
 内村自身は、可拝論に近い立場を取りつつも、周囲がこの問題について「更に寛大」だったことに驚いている。そのなかで内村は、自身の行為をどのように記述するのかにこだわっていた。内村いわく、あれは「拒絶にはあらずして躊躇なりし、良心の咎めなりし」。ではなぜ、内村はためらい、また「ためらう」という表現にこだわるのか。

 (1) 事件をめぐる意味空間への違和感 (p.7)
 先述のとおり、事件以降内村の行動は「信仰心」にもとづく「断固たる拒絶」であるとされ、そこに「不敬」(非難) や 「抵抗」(賞賛) が読み込まれた。内村はこの意味空間に対する違和感を表明したのではないか。
 内村は、「新たな儀式の場で天皇の署名に深くお辞儀をすることが何を意味するのか、土壇場でわからなくなってしまった」という。内村は、意図をもってお辞儀をしなかったのではなく、自身の行為がどのような意味を持つのかがわからなくなってしまったがゆえに明確な意図を持てなかったのである。「内村の<ためらい>という言葉は、まずは、当の儀式におけるお辞儀という身ぶりがもつ意味のわからなさ (あるいは意味の欠如) に対応している」。

 (2) 儀式空間のなかの身体 (p.7)
 
では、内村が直面していた困難とはどのようなものであったのか。儀式空間が多種多様な意図や思惑を孕んだ視線の交錯する社会的な《場》であったということからそれを読み解いてみよう。
 <愛国的なキリスト教徒>として知られていた内村は、敵対的な視線や、自身を頼っていた学生からの視線を意識し、2つの可能性に直面する。<キリスト教徒>として不徹底だと嘲笑される可能性と、<愛国者>として不徹底だと嘲笑される可能性である。それゆえに内村はお辞儀をすることも、しないこともできない。内村がためらってしまったのは、「自らが<愛国者であること>と<キリスト教徒であること>を、ひとつの儀礼的な身ぶりにおいて同時に他の人びとに対して示す方法がわからなかったからなのである」。そして、その些細な身ぶりは、期せずして二種類のまなざしの裂け目を露呈させてしまった。
 
 (3) 身体空間という位相 (p.9)
 内村のためらいは、「イデオロギー的な意味空間には還元されない、別の位相の存在を示している」。儀礼の場に立ってみたとき、お辞儀を行うことと行わないこととの間には、「儀礼を実践する身体の時空とでも呼びうるような領域」が広がっている。「まさに儀式の《場》にある身体の前には、そのあらゆる瞬間に、社会的に限定された − しかし、多様かつ他様な − 選択肢が広がっているのであり、そこにはイデオロギー的な立場には還元されない固有の政治性 (politics) が存在している。(…) <身ぶり>が社会的な意味を帯びる「前」の瞬間、《そこで、何が可能なのか》を考えることを可能にする身体空間=イメージ空間——それこそが、<ためらい>という言葉で内村が示そうとした“場所”なのである」。


 
6. おわりに——国家の儀式空間と集合的身体論への視座 (p.9)
 内村の事件が示すのは、国家の儀式空間における身体的な経験の新しさ、そしてそれらをめぐる言葉の過剰さである。儀礼的な身ぶりは、その無意味さゆえに多様なイデオロギーや意味を読み込む言葉の舞台となるのだ。「この身体の「背後 (にあるもの)」を語る言葉の舞台においてはじめて、われわれがよく知っている「心=内面 (なるもの)」がひとつの制度として出現する」。



コメント


1. 意味を読み取られる身体と、行為の可能性
 私たちは、物語が大好きだ。だから、「我々は衆人環視の中に一人毅然として屹立(きつりつ)し礼拝を拒否せられた瞬間の先生の巨姿を思い浮べ、今尚戦慄を禁じ得ない」と述べてしまったりする。しかし、実際には、そのような物語に回収される前の「すきま」が存在するはずだ。そのことを、簡単な事例から確認してみよう。


・私が、「私は国歌を歌うのが嫌いだ」と言ったとしよう。それに対して相手は何を考えるだろうか?
・「国歌の歌いにくさから国歌に対して苦手意識を持っている。だから、私は入学式や卒業式では歌わない」。そういう人が、当然いたはずだ。あるいは、もっと単純に、「何の理由もなく、歌わない」という人も多かったのではないか。
・しかし、ある時期以降、儀式における国歌は <権力とそれへの抵抗> の舞台として過剰な意味を与えられるようになってしまった。国歌を歌わせたい人たちは、口の動きまで観察する。口を動かさない人たちは、「抵抗する人」と見なされるようになる 。
・そこでは、「歌いにくいから歌わない」「特に意味なく歌わない」という行為 (あるいは行為しないこと) の可能性は消滅してしまう。「歌う」か、「抵抗のために歌わないか」のいずれかしか、採ることができない。その「すきま」に存在していた多様な行為の可能性の空間は、行為に過剰な意味が見出されるようになることで、消滅してしまうのである。


 このような隙間を、可能な行為の空間が閉じられたあとの世界から見出すことには困難が伴う。


 

2. 眼差しと行為(不)可能性
 こうしたことを確認したうえで、次に本論文が内村の<ためらい>をどのように描き出したのかを確認しておこう。本論文が描き出したのは、内村が「どのような意図を持って何を行ったか」ではなく、内村が「いかに意図を持ちえなかったか」「いかに行為することが不可能であったか」ということである。
 「愛国的キリスト教徒」であったはずの内村は、敵対的な眼差しや自身を頼る学生からの眼差しを内面化するなかで、<キリスト教徒>として不徹底だと嘲笑される可能性と、<愛国者>として不徹底だと嘲笑される可能性に直面し、ためらう。内村は、自身の行為が事後的にどのように解釈されてしまうのかを確定できないために、「ある行為によって自身の意図を表明する」ということすら不可能になってしまうのである。行為の意味が (自身が内面化するまなざしによって) 引き裂かされてしまっているがゆえに、意図を持つことができず、行為すること / しないことができない 〔注1〕。これが、本論文の描き出した「ためらい」であった。
 このような形で本論文が明らかにしたものを、言葉を変えながらやや大胆に一般化してみよう。本論文は、儀式の空間を取り上げ、「《そこで何が可能なのか》」を問い、そこから内村鑑三不敬事件を描きなおした。これを一般化すると、本論文は「行為の可能性の空間」を明らかにし、その方向から歴史を描きなおす試みであったといえるだろう。
 我々の行為は、様々な形で制限されている。例えば、私はこの勉強会で突然自身の信仰を持ち出して、それを科学と混同させたりはしない (「神が唱える唯一の社会学があり、誰もがそれを信仰・実践するべきだ」などと言わない)。これは冗談だが、勉強会にせよ儀式にせよ、ある特定の場は行為が制限されることによって生み出されているということは確かだろう。そして、その制限が「期待 (他者のまなざし)」から成り立つ場合もある。国歌の例を思い出してみよう。「儀式に参加する全ての人が国歌を歌うべきだ」という期待は、「とくに意味なく歌わない」という行為の可能性を消し去り、「歌う」か「抵抗として歌わない」という二択を突きつける。その間にあったはずの多様な行為 (あるいは行為の意図を持つこと / 持たないこと) は、不可能になってしまうのである。そして、そのように行為が制限されることで、「全員が国歌を歌うという儀式」が可能になるか、あるいは (歌わない人がいる場合) 儀式の場が「国家とそれに対する抵抗の場」として意味を持つようになる。
 そして、このとき実は重要になるのが、ある特定の時代・場所における諸概念の結びつきであろう  〔注2〕。引き続き国歌を例にしよう。重要なのは、ある時期に「国歌を歌わないこと」が「(愛国に対する?) 抵抗」に結び付けられなければ (そのような「心」を見出す眼差しが存在しなければ)、そもそも特定の行為は問題にならず、それは制限されなかったであろうということである。同様に、「天皇 (神)」と「愛国」が結び付けられ、それを表現する儀式が学校現場に入り込まなければ、内村は「愛国的キリスト教徒」として何もためらうことなくお辞儀をすることができたはずだ。ここから示唆されるのは、ある特定の行為の可能性は、概念同士の結びつき (本論文の表現を採用するならば「社会性の平面としての言説編成」) によって左右されるということである 〔注3〕。
 本論文が「多種多様な意図や思惑を孕んだ視線の交錯する社会的な<場>」とそこにおける「身体」といった言葉で表現するものは、以上のような形で一般化することが可能である。改めてまとめておこう。(イデオロギーを先に読み込むのではなく) ある特定の時代・場所において、どのように概念が結び付けられており、それによって「そこで何が可能になっており、何が不可能になっているのか」を明らかにすること、ある行為者が「どのような意図を持って何を為したのか」ではなく、具体的な空間において「何を為すことができ、何を為しえなかったのか」を明らかにすること。そうした視点から本論文は行為の記述を試みるのである。


3. 「心」を見出すことに抗いながら、行為と経験を記述する
 では、このように「何を為すことができ、何を為しえなかったのか」という視点から行為者の行為を記述することには、どのような意義があるのだろうか。
 前節までで確認したように本論文は、儀式の空間において内村は意図を持ちえなかったということを明らかにした。そして、それと同時に本論文が触れるのは、儀礼における無意味な身体は多様に意味を読み込まれうるということである。内村は意図を持ちえず行為できなかったにも関わらず、周囲の眼差しは、そこに彼の「心」を見出す。そのような眼差しのなかで、内村は「抵抗する主体」という像を押し付けられることになってしまい、特権的な意味の舞台として盛大な議論の的となってしまった。
 「社会学とは何か」という問いに答えを与えるのは難しいが、その特徴の一つに、ある事態を「心」や「意図」の問題に還元しないということがあるだろう。「自殺論」であれ「動機の語彙」であれ、あるいは「社会に問題を見出すこと (ある問題を、当事者の「ワガママ」であると一蹴したりせず「社会」の問題であるとすること)」一般においてであれ、そうした特徴を見出すことができる。では、このような視点から歴史を見ていくことは可能だろうか、あるいはそのような視点から見た歴史には何が写るのだろうか。本論文は、こうした疑問への一つの答えを提示している。
 本論文はある事態を「心」や「意図」を持った「主体」へと還元しないことで、宗教と国家についての異なる見方を提示する。「抵抗する主体としての内村」ではなく、「儀式の空間のなかにある無数の身体の一つとしての内村」としての像を鮮やかに描き出してみせるのである。そして、このように「儀式の空間のなかにある無数の身体の一つとしての内村」を描き出すことで、本論文は社会学が頻繁に取り扱うテーマである「近代化」についても、興味深い見方を提示する。それは、「主体」の「意図」や「心」によって作り出されるような「近代」ではなく、「儀式という場において身体が経験した「近代」」とでも呼べるようなもの、その「軋み」であった。


4. まとめ : 社会学における認識と (認識の) 方法
 行為の可能性の空間を見ていく (「誰がどのような「意図」を持って何をしたか」ではなく、「そこで何を為すことができ、何を為しえなかったのか」を見ていく) ことで、「主体がつくりあげた「近代」」ではなく、「身体が経験した「近代」」とでも呼べるようなものを描き出したこと。そうすることで内村鑑三不敬事件に対して異なる見方を提示して見せたこと。こうした点で本論文は画期的であり、また歴史において行為者の行為をどのように認識・記述するかを議論する際にも重要な位置を占めるといえるであろう。
 そして、もちろん議論の対象となるのは何も過去の出来事だけではない。「ある当事者を行為の主体として記述するとき、そこで見落とされてしまっているものは何か」「ある具体的な場面に参与する当事者について、その人が何を行うことができ、何を行うことができないのかという視点から (その場面を構成する諸概念の関係性も視野に含めて) 見たときに、その場についての記述はどのように変わるか」といったことを問うこともできる。こうした理由から、本論文は入念に読まれ、検討されるべき価値を持っていると評することができる。
 さて、最後に蛇足を付け加えておこう。もしかすると、「そうした分析にはどのような意味があるのか」と規範的に問う人もいるかも知れない。権力に対する抵抗をこのように記述することにどのような意味があるのだろうか、むしろこのような記述は権力に対する人間の主体性、あるいは権力に対する批判の力を奪っていくようなものであり、その点で権力と親和的ではないかと。これに対しては、「可能な行為の空間」を問うことで可能になる批判のあり方もある、ということを指摘しておきたい。フーコーは「啓蒙とは何か」という良く知られたテキストのなかで、まさにこの「行為の可能性の空間」を問うことの批判的可能性を述べている  〔注4〕。まぁそうした大層な意味があろうとなかろうと、「別の仕方で記述する可能性」を常に追求するというのは、学問の第一要件なのであるが。



関連文献紹介


 「そう大層なことを言ったところで、本当にそんなことを (内村以外の例で) 実践できるのかね」と疑う人もいるかもしれない。そこで、最後に赤江のその他の論文・著書に触れながら、赤江の研究が持つ広がりを確認しておきたい。
 まずは、身体と眼差しについて。人々は、はじめから特定の期待を内面化しているわけではない。それゆえ特に新奇な儀式を広げようとする場合、そこには期待を内面化させるプロセスが併存していると推測できる。そうしたプロセスを明らかにしつつ、これまで見落とされがちであった権力の微妙なあり方に注目するのが、赤江達也「〈不謹慎〉の政治学—戦前期日本の神社祭式と身体への眼差し—」(関東社会学会『年報社会学論集』26号 pp.28-38 2013年9月) である。この論文では、儀礼空間に神職や氏子がどのように組み込まれていったのかが扱われている。例えば、満州事変以降人々の神社への動員が強化されるなかで氏子・神職の拍手礼拝が「全く同じようにパンパンと揃つて」いることを賞賛するような眼差しが生まれた。そうしたなかで、「不敬」や「大逆」とは異なる、理想化された祭式の秩序からの些細な逸脱としての「不謹慎」が発見されるようになる。この不謹慎は、「順応か、抵抗か」といった対立の構図のなかには位置づけられないために見落とされやすいが、「その微妙なあり方において、天皇制国家の権力が多くの人々へと作用する仕方、国家の秩序が表現される仕方を示している」といえるだろう。
 以上のような形で、身体と眼差しについての研究は広げられている。では、「行為の可能性の空間」から「日本の近代」を問うという試みについてはどうだろう。これに関しては、戦前・戦後の知識人は「何を為しえたのか」という視点からこの試みを発展させた良書として、赤江達也『矢内原忠雄 戦争と知識人の使命』(岩波新書 2017年6月) を挙げておこう。
 不敬事件以降、内村鑑三は幸徳秋水らと理想団を結成し非戦論を唱えつつ、1900年に個人雑誌『聖書之研究』を創刊する。この個人雑誌はやがて文書による伝道という形を得ることになり、各地に読者共同体を生み出した (無教会派キリスト教)。そして、そうした伝道活動を行う内村を師として仰いだのが、やがて戦後「良心的知識人」として活躍し、戦後二代目の東大総長となる矢内原忠雄であった。
 本書は、「良心的知識人」として知られる矢内原忠雄の思想と生涯を丁寧にたどりなおすことで、「戦前から戦争へ、そして戦後へといたる過程で、知識人がなにをなしえたのか」ということを考えていく。本書があぶり出すのは、矢内原の主張と、戦後日本が彼に期待したものとの間の「ズレ」であり、またその期待ゆえに彼が何を為しえ、何を為しえなかったのかということである。「矢内原は、キリスト教の預言者として、「神の言葉」を国民に語り続けた。だが、その主張の意味するところは、キリスト者以外には、ほとんど理解されることはなかった。そして、その無理解ゆえに、矢内原は「平和と民主主義」を語る公共的知識人として高く評価され、賞賛されていく。そこに矢内原の知識人としての栄光があり、預言者としての悲哀がある」(:240)。
 また、単純に矢内原忠雄という一人の人間の生涯を丹念に追った本としても刺激的であり、一読の価値がある。






〔注1〕行為しないことができないという側面にも目を向けておこう。お辞儀をすることと同様、儀式の場においてお辞儀をしないこともまた、情報を伝達してしまう。内村には、「自身の行為の意味が明瞭になるまで待つ」という選択肢も残されていないのである。少しだけ頭を下げるという奇妙な態度は、このような空間のなかで生まれたのであろう。
〔注2〕ありとあらゆる多様なもの (期待・価値や特定の対象物など) の結びつきに注目する必要がある。そのため、とりあえずこの「ありとあらゆる多様なもの」を指し示すかなり広い言葉として、ここでは「概念」という言葉を採用した。
〔注3〕この考え方を広げていくと、そもそも特定の概念が存在しなかった時代に、ある対象は存在できるのか (そして、ある概念が登場するようになることで、可能な存在の空間、可能な行為の空間はどのように変容するのか) という問いにも行き着くだろう (ハッキング「歴史的存在論」)。「歴史的存在論」から少し引用しておこう。「重要なのは、われわれが一見、行為を自由気ままに選んでいるように見えても、それは実は、われわれにとって開かれた行為、言い換えると、われわれにとって可能な行為の中からの選択にすぎない、という点である。さらに言えば、それが自由に選ばれたものであろうとなかろうと、われわれの存在のあり方は、われわれにとってある時点で開かれた、一定の「可能な存在のあり方」の一つにすぎないのである」(:54)。このように述べた上でハッキングは、フーコーの知・権力・倫理という枠組みに沿いながら、「ある個人が自らの人となりを、言い換えると、自らの「個人の経験」を作り上げていく可能なやり方の総体」(:56) を対象にした研究の可能性を論じていく。なお、そうした分析は具体的な場においてこそ意味をもつ。「概念とは、ある一定の環境の中で用いられる言葉に他ならない」のであるから、その概念が利用される特定の具体的な場こそが哲学の対象となるのである (:40)。
〔注4〕例えば、「私たちが今のように在り、今のように行い、今のように考えるのではもはやないように、在り、行い、考えることが出来る可能性を、私たちが今在るように存在することになった偶然性から出発して、抽出することになる」という点で、「それぞれの言説を、それぞれに歴史的な出来事として扱う」歴史的調査は現在に対する系譜学的な批判となりえるのである (フーコー「啓蒙とは何か」,1984=2006:386)。ちなみにドゥルーズがフーコーについて書いたとき、そのタイトルは「トポロジー、「別の仕方で考えること」」というものであった (ドゥルーズ,1986=2007)。ただし、その意味するところはよくわからないのだが。










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