血と愛と枷と糧 ― 『映画ドキドキプリキュア~マナ結婚!!? 未来につなぐ希望のドレス~』感想― (*ネタバレあり)
いつかきっと現実にぶつかることになるだろう。それでも、あの日もらった「愛」は糧になってくれる。
*2013/11/9に公開したものに加筆訂正。映画館で見た直後に書いたものです。ネタバレあり。
・血と、生きるということ。
今回の映画は、死体や流血シーンをかなりリアルに書いていましたね。どちらも今までにない試みでした。
たとえばハートキャッチでも目の前で父親が爆死したりするんですが、そこにリアルさはあまり無い。その死を受け入れるゆりさんの心の描写もそれほど深くは描かれません。流血も全シリーズを通してちょこっとだけ。(イースの仮死体はけっこうショッキングでしたが。)
ところが今回の映画では、ブルーシートに乗せられた犬、嫌にリアルな肩・首筋からの大量出血。おばあちゃんの骨折も、不安になる出来事ですよね…。(もしかすると、あの入院が原因で痴呆になってしまったりするのかな…とも思いました)。
余談になりますが、こうしたリアルなシーンに加えて、たとえば幼少期の四葉ありすの、父親との奇妙なすれ違いも印象的です。ありすにとっては初めての父とのおでかけ。それが一番の思い出だったからこそ、ありすのオモイデとしてそのシーンが選ばれたはずなのですが………このシーンがとても切ない。
ぬいぐるみにお出かけの嬉しさを話すありす。悪意もなく、そのぬいぐるみを「そんなもの」と呼んで置いていかせる父親。そして、それに笑顔で応えるありす。
父にとっては、あの日は娘が「社交界」という “大人” への道の第一歩を歩む特別な日だったのであり、“子供” らしいぬいぐるみは邪魔/無意味なものでしかありませんでした。
子供って、ああいう何気ない場面で、無意識のうちにいろんなことを学んでいるんでしょうね。ありすはそういう場面が多すぎて、はやく大人になりすぎた。この何気ないスレ違いの描写がとてもリアルでした。
話しをもどして。
大切な人、もの。そしてそれとの別れ。あるいは自分と世界との別れ。
その瞬間は、決して喜ばしいものではありません。子供のときに夜、ふとそのときを考えてとてつもなく哀しくなるような、考えるのも辛い瞬間です。
それでも、そのときは必ずやってくる。場合によってはとても理不尽な形で。
死体、あるいは流血というこれまで描かれなかったモチーフは、そうした生きることに必ず伴う別れと痛みを、それでも受け入れて前に進んでいくというマナの意思を表していると、わたしは解釈しました。
過去に死体となった犬と向かい合って、その痛みを受け入れて、前に進んでいくのだと。
受けいれるということは、〈癒やす〉こととはまた違います。癒やすことには〈忘れる〉という側面が含まれているのではないでしょうか。なぜなら現実を忘れて思い出の世界に引き篭もったマナは、おそらく癒やされていたでしょうから。
だから、癒されるのではなく痛みを痛みとして引き受ける。こうすることで、過去を忘れ去ってしまうのではなく、自分のなかに重みのあるものとして残すことができる。痛みを受けいれることで、過去を忘れずに、それでも前に進んでいくことができるのです。
そして、クラリネット(過去・捨てられたもの・捨てなければならないもの) と、ドレス(未来・受け継がれるもの・受け継ぐもの) との闘いが映画の最後に描かれます。
クラリネットは、きっとなんでも蘇り襲いかかるのでしょう。実際ふとした瞬間に、我々は過去の痛みに襲われることになります。
それでも、そのたびに人はその痛みと向き合って、いつかもらった「愛」を思い出して、未来へと進んでいかなければならない。生きる上で、それを何度もくり返していかなければならないんだということが、戦いとその直後の回想シーンで示唆されていました。
(映画として、根本的な解決が描かれていなかったという感想をいくつか見ましたが、人生を歩む上でたびたび過去と向き合うことになるのは自明であり、そこに解決法などないとわたしは思います。)
(クラリネットの意味するところは、おそらく「僕の大切な、でも壊れて音のでないクラリネット」であり、たとえば映画フレッシュのような結末に持っていくことは、それ自体がテーマを崩壊させるような気がします。「捨てなければならないもの」なのではないでしょうか。)
・愛と絆と糧と枷
絆は「ほだし」と読むこともあります。
「絆」という字はもともと、動物をつないでおく綱のことを指していました。「きずな」「ほだし」のどちらで読んでも、「絆」という字自体は何かを繋ぐ綱のことを指します。しかし現在では一般に、「きずな」はポジティブな意味で、「ほだし」はネガティブな意味で使われていますね。
こうした「絆 (きずな / ほだし)」という言葉の両面性は、「つなぐ」ということへの解釈の両面性を表しているのだとわたしは思います。家族の「絆」によって、一生苦しめられる子供もいるということです。
そして、時間 (現在) とは過去と繋がりそして未来へと繋がる、一本の綱のようなもの。つまり「絆」のようなものではないでしょうか。それが一本の綱である限り、過去は現在を、そして未来を規定しています。だからこの映画は未来へと舞台を移すのです。(もちろんウェディングドレスや結婚という要素を入れないと子ども受けが見込めず企画が通らなかったという事情があるのでしょうが……)
過去はときに「ほだし」になり、ときに「きずな」となります。その点でもやはり、それは「絆」のようなものです。おばあちゃんや犬といった要素はまさにそうした (現在につながる) 過去の両面性を表現しているのでしょう。あの日にあの人たちから受け取った「愛」は、紛れも無く「きずな」であり、次の世代に繋ぐべきものです。しかしその人たちとの辛い別れは、ときに人を立ち止まらせる「ほだし」となってしまいます。
辛い記憶が「枷」になって、前に進むことをためらわせることもあるでしょう。あるいはあの日もらった「愛」が「糧」になって、前に進む勇気をくれることがあるでしょう。
いずれにせよそれは一本の「絆」であり、未来につながっていくものなのです。
そしてマナは、希望のドレスを未来につなぐことを決心するのでした。
*上記はあくまでわたしが作品から勝手に受け取ったメッセージであって、劇中では使い捨てのテレビが「まだ映るのに…」と言っていたり、クラリネットもきれいな音が出てるんですけどね…。それでもやっぱり、あそこで映画フレッシュのような結論になったらそれも違うと思うのです。(フレッシュ批判ではありません。あれも一つの答えですが、〈過去〉と〈未来〉を絶妙な緊張感の上に対立させるドキプリのテーマにそぐわないのではないでしょうか。)
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