夢。


 その夢の中で私は何かに追われていた。追ってくるものが何かはわからないが、本能的に逃げていた。白い廊下の角を曲がり、鉄の非常階段を見つけ、まるでそれが当然であるかのように駆け上がった。一階上がるごとに、それが途中の階から登っては、降りてはこないだろうか不安と恐怖で胸をつかえつかえしながら走った。

 気がつけばもうかなりの高さまで来ている。ずっと白い壁だと思っていたものは実は霧だったらしい。いつの間にやら吹き始めた風がそれを吹き飛ばしてしまった。私の昇る階段だけが不安定にそこにある。非常階段の手すりは頼りなく、先ほどまで前ばかりを見て登り続けていたにも関わらず、いまはもう足元で踏みしめる錆の軋む音が気になって仕方がない。錆びは段差の隅を中心に金属を侵食し、ところどころ開けられた穴から見えるのは紫の空。こんなにも脆い。私は何故か次の一歩で落ちてしまうのではないかと不安で不安で仕方がなくて、そこから動けなくなり、震えた足でしゃがみ込むとそこはショッピングモールだった。無人のショッピングモール。私は落ちてしまうという焦燥感と、足から股間にかけて残る柔らかな虚脱感を抱えたまま、そこに取り残された。

 いつから、ここでこうしていたのだろうか。広い建物のなかに私は座り込んでいる。吹き抜けの広場のエスカレーターの近く、三階。吹き抜けの空間を挟んで目の前には時計屋。少し右側斜めの向こうに長く続く衣料品売り場。階下を見れば、薬品、その奥僅かな暗がりに生鮮食品。遠くから静かに聞こえるのはゲームセンター、そして恐らくCDショップで流れるもの、録音された笑い声。他の音はすべて消えてしまっているのに、なぜそれらの音だけが流れているのか。時計の針すら動いてはいない。時折並べられた衣類の何処かから布摺りの音がシュ…シュ…と聞こえてくる。あるいはあまりの静けさに、耳の奥に生まれた私の音か。

 人の気配がない。音と同様照明も不自然で、明るく照らされる家電売場の、その奥にひっそりと照明の消えた薄暗い空間。いつもの、全ての空間が無機質に照らしだされた、清潔さと冷たさを湛えたあの状態ではない。薄暗く、しかし一部は異様に明るい。すべてを照らさない空間は、陰を生み出す。やたらと明るく広い本屋のレジの上部に設置された薄オレンジで温かみのある照明と、その向こう、自然科学と宇宙の背表紙を照らす不自然に白い照明が、混ざり合う間の落ちた照明の空間。陰る新刊本、並べられたエッセイ集、そして並ぶ本棚と本棚との間にある空間を満たす、オレンジと白を微かに含んだ薄影。

 音と光の不均等な配置は意図を感じさせる。しかし、ここには人はいない。どうやら私から見えないところまでもを含めて、人はどこにもいないようだ。シン…と空気が張り詰めている。

 本来活気があるべき場所なだけに、無人の不気味さは際立つ。誰もいないことはわかっているのに誰かいるような錯覚を覚えてしまう。並んだスーツの陰、カーテンの閉まった更衣室、メガネ店のカウンターの奥にある扉の向こう、エスカレータの下にある自動ロッカー、積まれたカゴの後ろ。そして私は思い出す。気配もなく何かに、今まさに追われているということを。途端に不安になる。エスカレーターの手すり、そこから僅かに見える階下、衣服の隙間、薬品の並んだ棚の後ろ、明かりの消えたペットショップの空白のケージ。未だ残る虚脱感。不安になる。前を見れば背後が、背後を見ればまた背後が、そして影が、防火扉の向こうが、遠くから聞こえてくるゲームセンターの賑やかなUFOキャッチャーの機体の後ろから少しだけ顔を出してこちらを伺っている何かが。目に見えるすべてのものが、そして目に見えないすべてのものが。

 壁に背を向ければ安全かもしれない……と思い、しかし留まる。壁と私の背中との間に生まれた空間に、何が滑りこむかも解からないのだから。トイレのなかに逃げ込むというのはどうだろう。安易だ。しかし四方が囲まれた空間は安心感を与えるだろう。私は想像してみる。トイレを示すマークと矢印があり、その矢印は曲がり角の暗がりを指す。暗がりの奥は仄かに明るく、それはトイレの照明が付いていることを予感させる (センサー式の照明なのに)。だが、そこを越えて、トイレに辿り着いたとしよう。トイレの個室のドアを開ける。もしそこに、私が座っていたら。トイレに座る私と、目があってしまったら。あるいは、トイレの個室に閉じこもった私を、四方を囲む扉と壁と、そして天井との間に空いたあの空間から、私が見下ろしていたら。私の息は止まるだろう。そして鏡。鏡のあるところでは、私は私の乱反射するまなざしの、一体どこに注目すればいいというのだろうか。

 青果売り場の野菜の絵、無機質な白い蛍光灯。洋服店のオレンジ色がかった電球。




(2016/1/14に書いたもの。とくに意味は無い。)



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