露悪的な表現と越境について。-「現代アート」を考える (執筆中)


 芸術に詳しいわけではない。とくに現代アートに関して、そんなに多くを知っているわけではない。だが、それでもアートと倫理について考えてみることはできる。そして、倫理はたぶん作品の質にも関わるものである (少なくとも私のなかには、そういう評価基準が存在している。そしておそらくその基準は、社会のある程度の人たちに共有されている価値観から、端を発している)。だから、考えてみることにする。

 とはいえ、それほど複雑なことを考える力はないし、評価の規準はシンプルでも良い。また新たな作品と邂逅する可能性があり続ける以上、シンプルな言語化を行い、それに適さない作品に出会うたびにその都度訂正していくほうが良いともいえる。だから、シンプルに書く。基本的なことは以下の記事ですでに触れた。ここでは大体同じような内容を、もう少し補足しながら書いていく。

 なお、先に断っておくが、私はこの記事のなかで多くのズルをする。例えば、「露悪的な作品」という言葉を使いながら、その具体例などは出さない。だから、議論は地に足の着かないものになる (どんな作品にも当てはまりそうであり、それは要するにどんな作品にも当てはまらないものである。そういう議論になる)。 もちろん頭のなかではいくつかの具体的な作品・作者をイメージしている。それでも、面倒を増やしたくはないし、論証をするだけの時間と体力がないので、それについては具体的なことを語らないことにした。この点だけ留意していただきたい。


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 私は、「露悪的」な表現が嫌いだ。しかし、露悪的であることがときに「現代アート」という文脈において、評価されることがある。露骨に明るい色調で描かれたエロ・グロ、あるいは性器への執着。

 この嫌悪感は私個人の感情によるものなのだろうか。そうであるなら、この話をする必要はなくなる。しかし、実際には、例えば公共の場で性器を露出することは公然猥褻となる。だが、アートの場では、そういったことが赦され、あまつさえ評価されたりする。ここで「表現の自由」などといったものが引き合いに出され議論されることになるのだが、ともかく、それはときに社会的に嫌悪されるものであり、その嫌悪されるものを表現し公共の場に登場させ、それを評価し論じる人達がいる。そういう共同体がある (ように思える)。

 ここには、一つの古典的な対立軸を見出すことをできるかもしれない。「保守」と「革新」についての対立である。すなわち、現代社会の基本的な倫理観を「保守」し続けていても、新たなものは創造されないし、またそうした倫理観によって見えなくされているものがある。それを公共の場で問うことに意味があるのだと。ここにアートの「革新」性があり、それを規制することは許されないと、このように言うことが出来るし、そう語る人がいる。

 まず、私は第一にこの主張は基本的に正しいと思っている。そして、それを認めたうえで、この記事では単純な指摘を行う。すなわち、「露悪的」な表現は、何も革新しないということである。もっといえば、「露悪的」な表現はつまらないということである。




ー本題に入る前にここで力尽きた。以下、書こうと思っていることのメモー


ちんこを見せることが悪いことを知っている人の前でちんこを見せてみたところで、それは別に誰の目にも見える境界をわかりやすい形で越えているだけ。

「露悪的」ということは、要するに「誰もが「悪」とわかっていること」だったりする。それをあえて引きずりだすことにそこまで意味はない。

(ただし、このように議論する場合、「善/悪」という価値観についての様々な議論が抜かされてしまっている)

越えることで初めて、そこに目に見えない境界が存在していたことに気がつくようなものならば、(多少露悪的であっても) 越えることに意味はある。人を不快にさせてまで越えることに意味があると強く主張できるのは、そういうときだと思う。

だから、何かを「壊した」とか「越えた」表現を目指すことは、余程の洞察力がないと難しいと思う (もちろん作品を受け入れる側にも、それを理解するための準備がいるし)。簡単に自分はそれを成し遂げたのだと言ってしまう人がたまにいるが。

もちろん人権など守るべきものは守るとする。それが守られるなら、今言ったことが保守と革新についての妥当な落としどころになる。

じゃあ、この評価軸は具体的にどんな作品を評価するのか。批判する作品を具体的に挙げずとも、評価する作品は挙げたほうが良い。だから、疎いのでよくわからないところも多いのだが、それでも一つ挙げてみる。ジェームズ・タレルの作品について (ただし、作品の内容については、あえて語らないことにする)。

あの作品は、「ある/ない」を越境する。私が境界を踏み越えるとき、私の身体は確かに「ある/ない」の区別を越えているのである。そして、区別を越えることは、区別を曖昧にすることでありながら、同時に強く区別を意識することでもある (この二つは矛盾しない)。(1) シンプルに、(2) 誰も傷つけない形で、(3) 越境を経験させ、(4) [現代アートにおける重要な要素の一つである]一回性を保持する。こうした作品を、まず単純に評価することができる。

(また、私はユエ・ミンジュンの天安門広場と「処刑」を描いた作品をほぼ同じ評価軸から、評価することができると思っている。しかし、それを明確には言語化できていない。いつか試みたい)

悪ではない越え方と、死体の描き方。



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