徹底して「勝利」を描かないハイキュー!!は、何に挑戦していたのか
※この記事では、漫画『ハイキュー!!』の結末に触れています。未読の方はご注意ください。
2020年7月20日に、八年半もの連載を経て、バレーボールを描いたスポーツ漫画・ハイキュー!!は最終回を迎えた。「大団円」という言葉以外、この物語の終わりに当て嵌まるものはないだろう。
「あまりに優しい漫画」衝撃だった見開き2ページ
ハイキュー!!について簡単に紹介しておくと、この漫画は時間軸で区切った場合、二部構成となっており、主人公・日向翔陽(ひなた・しょうよう)と影山飛雄(かげやま・とびお)が烏野高校排球部に入部し、県内予選を経て、全国大会に出場する一年間の物語を高校生編、その後の活躍をVリーグ編として描く。
主人公は日向翔陽と影山飛雄と書いたが、二人を軸に話が進展するというだけで、スポットライトが当たるのはバレーボールに打ち込む登場人物全員である。監督やコーチ、マネージャー、昔バレーボールに打ち込んだ人たちにまで光が当たるし、彼らの視点から語られる物語がある。
「多分 こんなふうにあっけなく“部活”を終わるやつが全国に何万と居るんだろう(中略)これが物語だとしたら全国へ行く奴らが主役で俺達はエキストラみたいな感じなんだろうか」
「それでも俺達もやったよバレーボール やってたよ」
(『ハイキュー!!』5巻40話より)
5巻40話は日向翔陽が属する烏野高校の記念すべき公式試合初勝利の回であるが、勝利への興奮はそっちのけにコートを去る何万もの敗者たちにスポットライトが当たる。
見開き2ページで負けたチームの数々を突きつけた時、なんて優しい漫画なんだと思った。あまりにも高校バレーに忠実で、どこまでも高校生選手に寄り添う。ハイキュー!!が描くのは、頂点に立つほんの一握りの強者ではなく、その下にいる何万人もの敗者なのだ。
徹底して「敗者」しか描かないことのすごさ
ハイキュー!!の出発点は、「敗者である」ということである。日向も影山も、高校バレー開始時点では敗者であり、どちらも中学時代にバレーボールで苦い経験をしている。彼らが属する烏野高校排球部も「落ちた強豪・飛べないカラス」という敗者のレッテルが貼られている。
弱いチームがのし上がり全国制覇を果たすという筋書は、スポーツ漫画では “あるある”だろう。しかし、ハイキュー!!がすごいのは、高校バレーでは徹底して「敗者」しか描かないという点である。
作中には多くのバレー部が登場するが、全国優勝するチームは一つとしてない。春高優勝を遂げたのは、読者の知らないどこかのチームだ。準々決勝で烏野高校排球部は敗退するし、彼らを打ち破った鴎台高校バレーボール部も決勝にはいない。
烏野高校と親交がある梟谷学園も決勝で負けて優勝を逃したということがのちに判明する。もれなくみんな負けるのだ。
春高編の終盤、バレーボール全日本男子代表チームの雲雀田吹(ひばりだ・ふき)監督は問う。
「挑む者だけに勝敗という導とその莫大な経験値を得る権利がある」
「今日 敗者の君たちよ 明日は何者になる?」
(『ハイキュー!!』43巻368話より)
走り抜いてきた末に敗者になった選手達のその先を問う。この助走をもって、どう飛躍するのかと問いを投げかける。
ハイキュー!!が1巻から高校生編が完結する43巻まで描いてきたのは、キャラクターたちの出発点であった。高校の部活物語はその先に続く長い長い人生の始まりに過ぎないのだ、とハイキュー!!は言うのだ。
烏野高校排球部の武田一鉄(たけだ・いってつ)監督は選手達が公式戦で負けた時、次のような言葉を投げかけてきた。
「君達にとって“負け”は試練なんじゃないんですか?地面に這いつくばった後また立って歩けるのかという」(『ハイキュー!!』8巻69話)
「負けは今の力の認識であっても弱さの証明ではない」
「君たちの何もここで終わらない これからも何だってできる!!!」
(『ハイキュー!!』43巻369話より)
武田は、IH予選敗退後に地面に蹲る若者を立ち上がらせ、春高の後には今日負けたとしても何も終わらないし何だってできるんだと力強く鼓舞する。敗者に寄り添い、挑戦を促してきた彼は、この漫画におけるメタ的な存在だろう。
ハイキュー!!の提示する、これまでとは異なる「勝利」
主人公の学校もライバル校も親交のある学校も戦った相手も、皆敗退という結果で、高校生編は幕を閉じた。しかし、そこで終わらないのがハイキュー!!だ。
43巻から45巻(11/4発売)のVリーグ編では、日向翔陽が修行を経てプロ選手として活躍する物語とともに大人になったキャラクター達の飛躍が一つのVリーグの開幕試合を軸に描かれていく。この三巻分の物語全てが大団円なのだ。
この試合では、勝敗は描かれるもののVリーグの優勝者は描かれない。さらに最終話(402話「挑戦者たち」)に登場する二つの象徴的な試合においても、描かれるのは試合の始めだけである。結果がどうなったか読者は知る由がない。ハイキュー!!は終章においても徹底して「勝利」(括弧付きの勝利)を描かないのだ。
結論を先に言ってしまえば、ハイキュー!!の提示する「勝利」とは、「挑戦者」であるということである。
終章でプロとして活躍するキャラクター達は、高校バレーという助走を経て、大きく飛躍したバレーボールへの「挑戦者」だ。そして、ハイキュー!!は、オリンピックではなく、クラブリーグで日々バレーボールに挑戦する選手を描いて物語が締め括られる。
多くの人はオリンピックや世界大会でバレーボール競技の存在を意識することが多いだろうが、実在の選手たちは日々バレーボールへの「挑戦者」である。ハイキュー!!の最後のページの日向・影山の「今日は/今日も 俺が勝つ」という言葉が、それを表している。
かつてのバレーボールの敗者達の中には競技への挑戦をし続けた子がいる一方で、そうしなかった子もいる。というか、プロ選手にならなかった子の方が多い。
烏野高校と春高2回戦で戦って敗退した兵庫県・稲荷崎高校には宮侑と宮治という双子のキャラクターがいるのだが、宮治が高校でバレーを辞めることを巡って二人が喧嘩するシーンで、宮治は次のように言う。
「何でバレーを続けてる方が「成功者」みたいな認識なん??」(『ハイキュー!!』43巻381話より)
どこかでバレーを続けていない彼らにショックを受けていた自分がいたから、宮治のこの正論には思わず膝を打った。高校の部活競技というものは、プロにならない人のほうが圧倒的に多い。ハイキュー!!は、最後まで高校バレーの側面を捉える。それと同時に、Vリーガーになった子もならなかった子も、かつての敗者はみな等しく人生の「挑戦者」であると肯定するのだ。
「勝利」を描かないハイキュー!!は何に挑戦していたのか
どうしてある一定レベルの「勝利」をハイキュー!!は描くことがなかったのかという問いには、この漫画がスポーツ漫画、延いては『週刊少年ジャンプ』三本柱の一つである「勝利」という概念に対する「挑戦者」だったからだと答えられるだろう。
ジャンプには敗北を出発点とする作品こそ多いが、「勝利」を描かなかった作品はほとんどない。例え主人公が負けても、勝者は必ず描かれてきた。
徹底して「勝利」と勝者を描かなかったハイキュー !!は確実にスポーツ漫画とジャンプ作品における「勝利」のバリエーションを増やした作品であった。さらに「勝利」と言う概念に戦いを挑むハイキュー!!自体が、ジャンプに対する一つの大きな「勝利」を象徴する。
この漫画には、明確な勝者はいないが、「勝利」する者はいるのだ。終章では、登場人物みんながオリーブ冠を被っている。
ハイキュー!!において敗者が挑戦者へと飛躍できたのは、何かに打ち込んだこと自体を肯定する優しさがあったからだ。
バレーが好きな子も、好きじゃない子も、辞めた子も、戻ってきた子も、プロになった子も、ならなかった子も、老いた人も若い人も子どもも。みんなのバレー物語はあってよかったんだと言ってくれる。ハイキュー!!は、「バレーをしていた/見ていた/応援していた」だけで、肯定するのだ。
何かに打ち込んできた人を新たな挑戦へと促す肯定は紙面を超え、読者にまで届く強く熱いメッセージである。
私は結果が求められることを日々しているわけだが、将来そのフィールドにおいて果実を結ばなかったとしても、以前のように酷く自分を追い詰めることはもうしないと思う。
頑張った結果、何も残せなかったとしても、打ち込んだことは己の筋肉となりこれからも自分を動かす動力になるとハイキュー!!が肯定してくれたから、これまでの助走を糧にまた新たな場所で「挑戦者」になるだけだと思えるだろう。
過去・現在・未来のあらゆる形の不完全燃焼を、ハイキュー!!は掬い上げてくれる。あの時間は無駄じゃなかったんだよと寄り添い、オリーブの冠を授ける。現実の延長上にあるフィクションが、こちらを振り向き、強く鼓舞するのだ。ハイキュー!!は私にとって、そんな意味をもつ作品であった。