番外:終戦記念日
今年で終戦から76年目となります。
豪雨災害で例年とは雰囲気が異なる終戦記念日ではないかと個人的に感じています。
日本国は「大東亜共栄圏」を作る大義を掲げて立ち上がった戦争は脆くも崩れ去りました。
私の祖父は陸軍に徴兵され、満州で終戦を迎えたと父から聞きました。
運よくソビエト軍に捕まることなく、日本に帰ってきたとのこと。
だから今私はここに存在しているわけです。
今回の番外で書かせていただきたいのは、私自身のツイッターでも様々な本をご紹介させていただいています
占守島(しゅむしゅとう)の戦い
です。
占守島の戦いは、
太平洋戦争終戦後(もしくは終戦準備・戦闘停止 期間中)の1945年(昭和20年)8月18日 - 21日に、
千島列島東端の占守島で行われたソ連軍と大日本帝国陸軍との間の戦闘
です。
最初に占守島がどこにあるかわからない方もいると思いますのでご説明いたします。
千島列島のほぼ最北端にあり、北東は千島海峡を挟んでカムチャツカ半島ロパトカ岬に面しています。
南には幌筵海峡を挟んで幌筵島がある。面積は230平方キロメートルで、海抜200メートルくらいの緩やかな丘陵が続き、沼地と草原となっています。
この地に日本がポツダム宣言受諾後に、ソ連軍が侵攻してきたのです。
当時、占守島には満州から転進した精鋭の戦車第11連隊等が配置されていました。
彼らが配置されていた北方方面での戦闘がほぼなかったため、食料・弾薬の備蓄が比較的豊富な状況でした。兵士の士気も高く、戦争に負けたという実感がなかったそうです。
戦闘概要は次の通りです。
ソ連は8月9日に日ソ中立条約を一方的に破棄して対日参戦しました。
ポツダム宣言受諾により太平洋戦争が停戦した後の8月18日未明、ソ連軍は占守島も奇襲攻撃し、ポツダム宣言受諾に伴い武装解除中であった日本軍守備隊と戦闘となりました。
戦闘は日本軍優勢に推移しましたが、軍命により21日に日本軍が降伏して停戦が成立、23日に日本軍は武装解除されました。捕虜となった日本兵はその後大勢が法的根拠無く拉致され、シベリアへ抑留されてしまいました。
概要だけを見るとそっけないものですが、
戦闘結果とその後を見ると陸軍はいかに国家を守ろうとしたかが理解できます。
ソ連軍は大きな損害を受けながら、日本軍の武装解除にたどりついた。
『戦史叢書』によれば、『イズヴェスチヤ』紙は「占守島の戦いは、満洲、朝鮮における戦闘より、はるかに損害は甚大であった。
八月十九日はソ連人民の悲しみの日である、と言われています。
ソ連側は後に「甚大な犠牲に見合わない、全く無駄な作戦だった」と回顧録を残しています。
両軍の損害は、ソ連側の数値によれば、
日本軍の死傷者1000名、ソ連軍の死傷者1567名である。
日本軍は武装解除後分散されたため、死傷者の正確な数をつかめませんでした。
ただし、日本軍人による推定値として、日本軍の死傷者は600名程度、ソ連軍の死傷者は3000名程度との数値もあります。
戦車第11連隊はすべて軍命に従って行動していました。
その命令の内容とは、
「18日16時の時点で停戦し、こちらから軍使を派遣」
「その場合も、なお敵が戦闘をしかけて来たら、自衛のための戦闘は妨げず」
との命令を受けていました。
また、占守島には当時、民間人が約2,000名を超えて居住していました。
ソ連軍侵攻の際の戦闘行為の根拠として、
民間人保護と国土防衛の2点は命令に反することはないと判断しました。
上級部隊指揮官の第5方面軍司令官の樋口季一郎中将は、
「断乎、反撃に転じ、ソ連軍を撃滅すべし」
と命を下し、日本国の領土を守るための自衛行為と民間人を退避させることを最優先させました。
大義があってないような戦争において敗戦決定後も日本国及び国民を守ろうとした軍人が多くいたことを忘れてはいけないと思います。
また現在もこの戦闘における志は自衛隊に受け継がれています。
北海道に駐屯する陸上自衛隊第11旅団隷下第11戦車大隊は、占守島の戦いにおける陸軍戦車第11連隊(通称:士魂部隊)の奮戦と活躍を顕彰し、その精神の伝統を継承する意味で、「士魂戦車大隊」と自ら称している他、部隊マークとして装備の74式戦車、90式戦車の砲塔側面に「士魂」の二文字を描き、その名を今なお受け継いでいる。
大東亜戦争の一部ではございますが、このようなことがあったことだけでも頭の片隅に残れば幸いでございます。
英霊とそのご遺族、そして日本国に明るい未来あらんことを
終戦記念日の今日改めて、未来の私たちのために戦ってくれた先人に敬意を表して黙祷
了
【参考文献等】
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%A0%E5%AE%88%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84