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第十話 「地獄の始まり」

妹が生まれ、半年ぐらい経った頃からだろうか。夜な夜な母と義父が言い争う声で目が覚めるようになった。平屋の貸家だった為、その声は家中に響き渡る。ふすま一枚隔てただけの所に寝ていた私と兄は、嫌でも目が覚める。妹は幸いにも、居間から一番離れた母と義父の寝室のさらに一番奥の端で寝ていた為、起き出す事はなかった。

当時母のパチンコ屋の仕事は遅番が多かったと思う。遅番だと、大体帰りが夜の十一時半から十二時を回る。そこから夫婦喧嘩が始まるのだ。地獄の時間の始まりだ。

その日も義父の怒鳴る声で目が覚めた。隣で寝ていた兄は既に目を覚ましているようだった。小学二年生だった私は、聞きたくもない夫婦の喧嘩の内容に耳を澄ます。聞いていないと、こっちにまで被害が来るかもしれない。そう思う程、今日の喧嘩は只事じゃない感じがした。喧嘩の内容はというと、簡単に言えば、帰りがいつもより遅い母に対して浮気を疑い、酒を飲んで妄想が膨らんでいる義父が、大声で母を問い詰め、母は必死になだめている。といった状況だ。

心臓の鼓動が速くなる。



なんで夜中にこんな緊張状態にならなきゃいけないんだ。これは悪い夢でも見ているのか。
兄も気が気じゃない様子だった。義父の怒鳴る声はますます大きくなり、私の緊張状態もピークに達しようとしていた。

と、次の瞬間、義父は母を殴ったようで、母は身を守ろうと義父と取っ組み合いになり、私と兄が寝ている部屋のふすまにもたれかかると、その拍子にふすまが外れ、私が寝ていた足元に倒れてきた。そこで見た光景は一生忘れない。必死に母が押さえる義父の手には、包丁が握られていた。

とっさに私は、一心不乱に外に駆け出していた。夜中の一時くらいに、小学生が、真っ暗の一本道を、裸足で。パニックになりそうな気持ちをなんとか押さえつけ、これだけはやらなければいけないと思った。

「助けを呼ばないと」

私は、二百メートル程離れた所の一軒家の、少し交流のあった家を覚えていて、そこに駆け込んだ。チャイムを押したのか玄関を叩いたのかは覚えていないが、気付いてくれて玄関を開けてくれた。

「お母さんが殺される」

そう伝え、そこで安心したのか、少し記憶が飛んだ。

それから何分経過したのかわからないが、近所の人に連れられ家の近くまで戻ると、家の周りにはパトカーが来ていて、物々しい雰囲気だった。パトカーは誰が呼んだのだろう。近所の人が呼んでくれたのだろうか。母は殺されてしまったのだろうか。兄は…妹は…。

私は憔悴しきっていた。

家に入ると、みんな無事のようだった。さっきまでの怒号が噓のように鳴り止んでいる。義父もパトカーが来たことで我に返ったのだろう。
パトカーが取り調べを終えて帰ると、ようやく我が家に夜が訪れた。

部屋に戻り、はめ直されたふすまに目をやると、もたれかかった衝撃で変形していてはまりづらくなっているようだったが、疲れ切っていてどうでもいいと感じ、布団に入るなり目をつぶった。が、目をつぶったものの、すぐに眠れるわけがない。ついさっき、裸足で外を走って来たばかりだ。興奮冷めやらぬといった所か。体は疲れているのに心が休めない。心身のバランスを崩す危ないパターンだ。

すると、隣で寝ている兄がすすり泣く声が聞こえてきた。兄も眠れなかったのだ。当時兄は中学生だったとはいえ、相当怖かったに違いない。なんでこんなことになるのか。悔しい思いでいっぱいだったと思う。兄の泣く声を聞いて、私も泣きそうになったが、泣いちゃいけないと思った。ここで泣いてしまっては、さらに兄に心配をかけてしまう。

地獄の夜が終わろうとしていた。

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