テレビと世と、時間と
『〇〇をもう一度見るなら〜』というTVerの案内。
番組の途中で流れるから、冒頭を見逃した人のことも、単にもう一度見たい人のことも、自然に呼び込めるのかもしれない。
しかし、私としては、テレビを付けてすぐにこの案内が流れると、なんだか寂しい気持ちになる。
番組終了直前でなくとも、もう結構番組は進んでいるのだ、終わりに近づいているのだ、というような感覚になる。
番組表を見て、短いニュース番組やスポーツ番組ばかりになるときも寂しい。
集中してテレビを見ているわけでも、何か目当ての番組があるわけでもないのに、不思議とテレビの時間の流れやテンションに、同期してしまうときがある。
同期するのが疲れるときもあるし、同期ズレを起こして消耗するときもある。画面から発せられているものと、それを受け取っている自分の間に生じるズレ。
テレビだけではなく、ラジオでも、昼前から夕方まで時報を聞くのが苦しいときがある。「よのなか」が、じわじわと自分に迫ってくるように感じる。
深夜近くからは、そこから開放され、むしろコソコソと落ち着いた気分になる。
年月を遡れば、まだまだ遊びたいのに友達と別れなければいけないとか、まだまだ遊びたいのに眠らなければならないとか、眠りたくないのに寝なさいと言われるとか、眠れば怖い夢を見るとか、それが夕方の憂鬱さであった。
楽しいことが自分の望みに反して急に終わる、という終わりの寂しさ。
ただ、それは明日になればまた遊べる、次が来る、という期待感で収めることができた。
それなのに、今の寂しいという感情は、もっとチラチラと現れて、気づかせてくれるなよ、と言いたくなるようなものだ。
どうにもできないのが、また虚しい。
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